黒石ねぷたばやしの歩み
山口義博
1, はやし統一の要望
津軽新報(当時みなみ新報)に掲載された黒石のねぷたばやし関連の記事を溯ると、
昭和32年7月26日号 「げれつなはやしの禁止」
昭和35年7月 5日号 「午後10時以降は、はやしをやめる」
昭和42年8月 4日号審査評として「はやしは改良する余地がある」
等がありますが具体的な提言は
昭和43年8月 8日号 「はやしの統一」を望むという意見が出されるようになり、それを受ける形で「はやしの3種類(進め、止まれ、もどり)を来年から統一」しよう」ということにはじまると見られます。
昭和44年6月29日号で「ねぷたばやしの講習会」という記事があり、これが講習会の始まりだったのではなかろうかと思います。
講習会の指導にあたった人達には神 秀雄氏、佐藤忠雄氏、(故)新岡 昭夫氏などの名前が挙げられます。
以後数年間は講習会を通じて統一にむけての努力と、関係団体やねぷた愛好者による統一についての議論が活発に展開されました。
統一には二つのことについて統一する必要がありました。つまり、前述「3種類・・」の確立と、3種類それぞれの演奏方法そのものの統一であります。
昭和47年7月11日号に、審査に関連して「片裏町のはやしを基準とする」ことが見られることから、このことによってはじめて曲そのものの基準が示されたものと思われます。 なぜ片裏町のはやしなのかということについては、津軽新報の記事をさがしても、当時の関係者に聞いても明確な答えは得られないのですが、当時片裏町は最優秀賞受賞の常連団体であり、片裏町のねぷたが黒石を代表するねぷたとして、その団体が演奏するはやしを基準とすることになったのではなかろうかというのが筆者の推測であります。
その後毎年7月頃2日〜3日の講習会が、稲荷会館、御幸公園の一角などを会場に30名〜70名の参加者を得て実施されてきました。
その頃筆者も講習会の指導に加わるようになっていましたが、当時は太鼓を積んで集まったトラックで円陣を形成し太鼓のそばに笛吹きが立つという形態でありました。
講習の内容は、全く叩けない、吹けないという参加者は少なく、曲の部分的な違いを指摘して修正するということが多かったのであります。
実際のところ、周りで見物している、昔、はやし手として活躍したであろう人達から「俺たちが昔からやってきたのと違う」と食ってかかられたり、指導者自体の演奏にも統一が完全ではなく、指導者同士が演奏の違いについて口論になったりで、講習会そのものが大変な状態でありました。
しかし、青年会議所が指導者を「講師」として委嘱(前述の各氏の他に安田輝男氏、久保田鉄夫氏、筆者)し、その指導者によって笛、太鼓の楽譜が作成され、また、講師の補助として高校生などの上級者を凖講師として採用するなど、年を経るごとに徐々にではありますが講習会の内容も充実していったのであります。
昭和49年7月30日号に「正調黒石ねぷたばやし講習会」の記事が載っているところから、このころに「正調」はほぼ完成したものと思われます。
昭和51年8月13日号、ねぷたまつり反省会の記事に「はやし講習会の長期間実施の要望」が挙げられており、次第に講習会が認知されるようになったことが伺えます。
昭和52年8月10日に開かれたねぷた反省会で、青年会議所から「はやしを3階級(初級、中級、上級)にわける」方向の説明がなされております。
昭和53年度には5月から複数回の講習会が実施され、講習会終了時、受講認定証の発行がなされました。
2,保存会の結成
昭和54年になって、予てよりその結成を目指して準備してきた黒石青年会議所の音頭によってねぷたまつりに参加している殆どの団体の加盟で、大溝栄久氏を会長に「黒石ねぷたばやし保存会」の結成を見るに至りました。
結成にあたっては千葉邦彦理事長をはじめ、当時の黒石青年会議所の多くの会員の、多大な努力があったことを記しておきます。
それまでほぼ青年会議所が主導権を持ちながら推進し、統一されつつあったはやしではありますが、統一したはやしの責任所在がはっきりしないことから、今ひとつ説得力に欠ける部分があったのですが、保存会の結成によってこれらのことが明確になり「これ(図1)を黒石のねぷたばやしとして保存する」という、保存会の宣言によって統一が確定したのであります。
従って、正調黒石ねぷたばやしはこの時をもって改めて制定したものであり、本来意味するところの伝統の継承ではないのであります。
しかし、だれか個人的な意見のごり押しでは決して無く、10年余にわたって多くの人達の要望と論議と研究努力の結果の制定であり、時宜を得たものであると確信します。
この年の講習会終了後の検定会から、はじめて初級、中級、上級の級階に認定証とワッペンが発行され、以後ワッペンを目標に多くの子供達が講習会に参加するようになっていくのであります。はじめて発行した年のねぷたまつり、半纏の肩にワッペンを着けて演奏に参加する子供達の顔は本当に誇らしげでありました。
ワッペンのデザインは黒石商業高校商業デザイン科の大溝先生をはじめ多数の先生方の合作によるもので、十数点書いていただいたものの中から選んだものであります。
このデザインマークはそのまま「正調黒石ねぷたばやし保存会」のマークとして現在も使用されております。
ワッペンは初級=黄色、中級=緑色、上級=赤色に色分けされました。
それまで、はやしの統一はかなり普及して来てはいましたが、保存会の結成とともに正調が確立されたことによって、その保存と普及のためにねぷたの審査の際「正調を演奏すること」が採点基準として採用されるようになり、はやしの採点が審査に大きく影響するようになりました。
はやしは各団体によってまちまちな演奏をしても採点の基準が曖昧なため、大差がつくことが少なかったのでありますが、正調の3種類をきちんと演奏しない、または正調以外の演奏をした場合など、その採点に大きな差を生じることになったのであります。
その結果、昭和55年8月14日号で黒石青年会議所木下理事長談として「はやしが賞のわかれめになった」由の記事が載っているように、はやしの出来がねぷたそのものの入賞に大きく影響することになるのであります。
3,講習会の充実
こうしたことが、それまではやしにはあまり力を入れていなかった各参加団体が、正調のはやし習得の必要性を認識し、多数の子供達を引率して講習会に参加するようになり、それまで稲荷会館を会場に実施していた講習会も、中央スポーツ館に変更しなければならないほどの盛況ぶりを見せることになるのであります。
昭和57年の講習会参加者は、実に400名を越えるほどになりました。
昭和58年度は4月から、59年度は3月からと、まだ雪の残る季節から長期間にわたって実施されるようになり、以後59年500名、61年400名、62年600名、63年500名など、平均して500名以上の参加者によって、会場となったスポーツ館もいっぱいになるほどになりました。
正調に対する批判、抵抗も根強く存在し、各団体の責任者への説得はこの後も長期にわたって続けることになるのであります。特に、市外からの参加団体にとっては複雑なものがあったと思います。
しかし、金屋同志会、前田屋敷など率先して黒石の正調を取り入れてくれたことによってこの問題は大きく前進するのであります。
4,技術者集団への変化
昭和60年、この年はこれまで黒石ねぷた並びにはやしに深く関わってきた黒石青年会議所が創立30周年を迎え、その記念事業として「世界一のねぷたと太鼓」の製作を掲げました。
黒石ねぷたばやし保存会はこの事業に協賛し、それまで講習用太鼓購入のため積み立てしていた基金の殆どの額である40万円を拠出しました。
完成した「黒石もつけ太鼓」の演奏は正調黒石ねぷたばやし保存会に一任されたことから、保存会は全ての会員が実際に演奏できる技術者集団になる必要性を感じ、それを目指して変化していくことになるのであります。
当初保存会が設立されたころはねぷたまつりに参加している各団体が、審査に関わるはやしの情報を得るために、団体のはやし担当者を会員として送り込み、会費もその所属するねぷた団体が負担してくれているケースが多く、会員が必ずしも演奏できる人とは限らなかったのであります。
このころから、正調黒石ねぷたばやし保存会の会員有志が毎週集まって真の技術者集団を目指し自主的な練習会を始めるようになりました。
5,級段位認定基準の制定
昭和54年から実施してきた、初級、中級、上級の級階は、5級から段位までの10等級に改められました。ワッペンも前述の3色に2色が加えられ、初段以上には金色のプレートが授与されました。(図2)
その理由として、3階級では昇級基準のうち特に中級から上級への昇級が難しく、子供達が上級への挑戦を諦め、講習にも参加しなくなってきたことがあげられます。
このことは、講習会の主催者である青年会議所が「正調普及のための講習を通じて青少年の健全育成」を講習会の目的として掲げて来たことが全う出来なくなってきたということにもなったのであります。
よって、その改善策として階級を細分化し、毎年継続して講習に参加させようとしたものであります。これによって比較的参加が少なかった、ろくに音もでない小さな子供達が5級に、また昇級を諦めて参加しなくなっていた中、高校生は2級、1級、初段といった上級クラスに挑戦するようになり、講習会の参加者が一層増加することになるのであります。 参加者が低年層に広がったことによって、4〜5歳頃から講習会に参加し始め、小学校2〜3年生で1級に挑戦する子供が出て来ておりまた、中、高校生の参加も増加したことはまことに喜ばしい限りであります。それまでに合格していた級によって次の通り各級段位に挑戦する権利が与えられました。
現行規定との対応(第8回定時総会資料抜粋)には次のように記載されています。
現行規定の認定者は発足年度において
1,昭和57年度以前に「上級」に合格したものは「初段」を受検できる。
2,昭和58年度に「上級」に合格した者は「一級」を受検できる。
3,昭和59年度に「上級」に合格した者は」二級」を受検できる。
4,昭和59年または以前に「中級」に合格した者は「三級」を受検できる。
5,昭和59年または以前に「初級」に合格した者は「四級」を受検できる。
※ 昭和59年度に凖講師に認定された者は「凖指導員」とし、段位二段を与える。
改定された級段位認定基準は次の通りであります。
5級 講習会に60%以上出席し、「進め」のメロディ(リズム)を正しく知っている。 4級 講習会に60%以上出席し、「進め」をきれいに演奏でき、「止まれ」のメロディ (リズム)を正しく知っている。
3級 講習会に60%以上出席し、「進め」「止まれ」をきれいに演奏でき、「もどり」 のメロディ(リズム)を正しく知っている。
2級 講習会に60%以上出席し、全曲を正しくきれいに演奏。
1級 講習会に60%以上出席し、指導協力し一級を受検した者。
初段 一級取得後、講習会で指導協力した者の申請書に基づき、判定会議で認定する。 2段 初段取得後2年間以上、講習会において指導した実績を持つ者の申請書に基づき、 判定会議が認定する。
3段 二段取得後2年間以上、講習会において指導した実績を持つ者の申請書に基づき、 判定会議が認定する。
4段 三段取得後5年間以上、講習会において指導した実績を持つ者の申請書に基づき、 判定会議が認定する。
5段 四段取得後5年間以上、講習会において指導した実績を持つ者の申請書に基づき、 判定会議が認定する。
6段 六段以上の段位については、五段取得後10年以上経過し、年齢がおおむね50 歳を超え、黒石ねぷたばやしの継承に著しく貢献した者に対し、判定会議で審議 これを認定する。
正調黒石ねぷたばやし保存会の会長が、大溝氏の勇退に伴い筆者に変わったのもこの年であります。
昭和60年3月31日号に「はやし講習会が始まり小学生ら300名程の参加があり講習会は今年で8年目」という記事がありますが、前述のように講習会は昭和44年頃から実施されていたわけで、この「8年目」というのは何から数えたか不明ですが、おそらく3階級の規定と認定証の発行がなされてから8年目ということではなかろうか。
6,指導者講習会の実施
さて保存会は、技術者集団に変化する必要から指導者の増強を図るため、指導員、凖指導員の制度を設け、指導者講習会を開催するようになりました。
さらに、遠方から講習会に参加する団体から、「子供達の送迎が大変」という声を受け、その対策として各地区において凖指導員有資格者による地区講習会開催を実施しました。 その結果、スポーツ館で実施する講習会を本部講習会、各地で実施する講習会を地区講習会として開催し、子供達は開講式と閉講式にのみスポーツ館へ来れば良いことになったのでありますが、凖指導員のみの指導では本部講習との間に技術的な差が生じたことが検定会において見られ、現在は地区講習の開催資格は凖指導員ではなく、指導員に改善されています。
昭和62年、NTT黒石はテレホンサービスで正調黒石ねぷたばやしを流してくれるサービスを始めました。演奏は、笛 安田輝男講師、太鼓 久保田鉄夫講師であります。
このとき収録されたテープを使用し現在もテレホンサービスが実施されています。
昭和63年からは、それまで使われていたワッペンを廃止し、5級〜1級は昇級ごとに赤線が一本づつ増え、初段以上は金線が一本づつ増えていく形に変更されました。(図3) 7,手振り鉦の導入
平成3年、それまで正調は笛と太鼓の演奏でありましたが、この頃から前述の自主的練習会で模索していた手振り鉦が安田あや子氏、中田竹道氏を指導者に、試験的に加えられ講習会で指導するようになりました。
平成4年、筆者の都合で会長を辞任し、斉藤一文氏が会長に就任しました。
手振り鉦も正式に講習に取り入れ、検定で17名の合格者を出しました。
以後手振り鉦は毎年20名前後の合格者を輩出しております。
さて、同じこの年、級段位認定基準が一部改正になりました。それまで5級〜3級は
「進め」「止まれ」「もどり」の順に一曲づつ増加していたものを3曲の中から得意な曲目で受検できるようにしたものです。以下改正になった基準を示しておきます。
5級 講習会に60%以上出席し、「進め」「止まれ」「もどり」の3曲のメロディ (リズム)のうちどれか1曲を演奏できる。
4級 講習会に60%以上出席し、「進め」「止まれ」「もどり」の3曲のメロディ (リズム)のうち2曲を演奏できる。
3級 講習会に60%以上出席し、「進め」「止まれ」「もどり」の3曲のメロディ (リズム)を正確に演奏できる。
2級 講習会に60%以上出席し、「進め」「止まれ」「もどり」の3曲をきれいに
演奏でき、メロディ(リズム)を正確に知っている。
(一級以上については改正なし)
以上のように改正されたものが現在も施工されています。
8,終わりに
平成5年、「はやし」を含む「黒石ねぷた」は県民族無形文化財に指定されたことを記念して保存会の半纏を製作しました。
また、指導資格も凖指導員、指導員、師範補、師範の4段階となり、前述の自主的練習会も保存会の公式練習会に位置づけられ、有段者を中心に40名ほどの会員が毎週練習に励んでおります。
はやし講習会の受講、検定合格者は現在まで延べ六千名をはるかに超える実績となったことは当初から黒石青年会議所が目的の一つとして掲げた「青少年の健全育成」に大きく貢献したものと思います。
初めての講習会に参加した子供達もいまでは立派に成人し、指導者として活躍する人達も多数出て来たことは喜ばしい限りであります。
この「正調」は保存会の所有物ではなく、黒石ねぷた祭りのはやしとして黒石ねぷたに係わる全ての人達長年の努力によって生まれた貴い財産であります。
このはやしが向後50年、100年と継承され、後世のはやし手達が胸を張って「伝統の継承」と言える時がくることを望むものであります。
おまけ
正調黒石ねぷたばやし 笛の楽譜