黒石ねぷたの性格と歴史
(文責 祢ムタ 考次郎 1999)
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民俗学からみたねぷた
2民族学と民俗学
11各地の似た行事 能代他
歴史の中のねぷた
黒石ねぷた祭りが、黒石市民俗無形文化財に指定されたのは、平成二年(1990)で、青森県民俗無形文化財に指定されたのは、平成五年(1993)のことですから、もう六年も前のことです。そして、黒石青年会議所四十周年記念に際し、『津軽ねぷた論攷 黒石』《分銅組若者日記 解 》を、弘前大学教育学部教授をなされていた笹森建英先生に著わしていただいたのは、平成七年(1995)のことでした。
この時私は、何故『民俗』なのだろう。『民族』ではないのかと不思議な気がしました。つまり、『民族』と『民俗』では、どこが違うのだろうと単純な疑問が生じたのです。また『民俗』とは何なんだろう思ったのでした。私が、このような事で多少知っていたのは、柳田国男と折ロ信夫くらいで、あとは、多少宗教学や文化人類学などをかじっていた程度の知識しかありませんでしたので、いわゆる語感的なイメージしか無かったのです。正直なところ、『俗』なことよりは『族』な方が良いような気がしていました。
ただ、私は、笹森先生が著作する前に、『ねぶたの歴史』(藤田本太郎著 1976年発刊)を下読みしていたので、このような学問から、このようなねぷたのとらえ方があるのだと感じていたので、幸いでした。また、ねぷたに関しては、『弘前ねぷた』ー歴史とその製作ー(1983年発刊)という本がある事も知り、接することが出来ました。どちらも弘前を中心とした文献ですが、明らかに風俗として、ねぷた祭りをとらえ、風説によらず、文献を根拠として、ねぷたの性格から、歴史を明らかにしていました。してみると、この2冊を踏まえて論攷は成立していると言っても過言ではないということになります。
お読みになりたい方は、3冊とも黒石公民館図書館にありますので、借りて読んで戴ければ一番いいと思いますが、今回は機会を得ましたので、より分かり易くを心がけて、と言うよりは、これらの本から考え方、文献資料を拝借しながら祭りの性格と歴史に分けて黒石ねぷた祭りに迫まってみたいと思いますので宜しくお願い致します。
また、このような事情ですので、原本にあたることはほとんどありません。大体が孫引きですので、関係者の方々にはご容赦をお願いします。
次回は、民俗学について考えて見たいと思います。
江戸時代の黒石ねぷたの絵 分銅組若者日記 より
ねぷたの性格は、民俗学の立場から特徴づけられています。そこで今回は、日本の民俗学について考えてみます。
ただ単純にミンゾクガクと言っても、現在日本では、民族学と民俗学の両方の学問があります。日本語では同じ発音ですが、英語に訳すと、エスノロジーとフォークロァのふたつに訳せます。
エスノロジーというとピンとこないと思いますが、例えば最近耳になじんできた言葉にエスニック料理があります。ベトナム料理、タイ料理などと民族に特有な味付け、ソースをもった料理をエスニック(民族的)といい、エスノロジーとは、このような民族に関わる固有の文化を比較検討していく学問と言えると思います。現在では、文化人類学、社会人類学との関係を強くしているようで、世界全体から様々な民族の違いや同じ所をさぐる学問になっています。
対してイギリスに起こったフォークロァを民俗学あるいは俗説学と訳して日本に紹介したのは、『海潮音』などの詩集の訳者として有名な上田敏です。
もっとも日本でも、十八世紀に本居宣長が、民間風習などに興味を示していたので、訳語を待つ前からこうした興味はあったのです。そして、こういった流れの中で柳田国男が、大正二年(1913)に「郷土研究」を創刊し、近代的な学問の形を作っていったと言えると思います。当時、折口信夫(おりぐちしのぶ)、南方熊楠(みなみかたくまぐす)も参画していました。その後、折ロ信夫が『民俗学』を発刊しましたが、強く『族』と『俗』の違いを意識していなかったようです。
少し難しくなりましたが、簡単に言うと俗の方は、いわゆる民間伝承で、地域のしきたりとか、祭りとか、民具、信仰も含めて、民衆としての一般的な人々がどんな風に生活していたかが、学問の中心となっています。
もちろんこうしてみていくと、歴史的背景が問題となります。「いつころからそうなったのだろうか。」となります。「それはなぜだろうか。」となります。そして「それは、現在までどんな理由で続いてきたのだろうか。」と多くのなぜが生まれてきます。
そして津軽一円に脈々と受け継がれたねぷた祭りは、民俗学の対象としてとても貴重で優れたものだと分かって戴けると思います。
余談になりますが、普通『俗』の反対語は『聖』ですが、両者があってこそ正常な社会が成立しているのではないでしょうか。
(参考文献 ちくま新書 民俗学への招待 宮田 登著 1996)
普通祭りというと、何かにぎやかで行って見たくなるといったくらいの感じだと思いますが、民俗学的な見地から本来の意味が定義されています。以下簡単に紹介してみます。
「まつり」という語は、本来服従する意味の「まつらふ」と同じで、祭りの目的は、祭られるものである神や祖先の霊の要求や命令に服従することにあります。さらに、祭る者は、神や祖先の霊をよびむかえ、水や酒や食物をささげ、さらに歌や舞いなどの芸能を演じてなぐさめ、結果として祭られるものと共感することが祭りなのです。歴史的にみると祭りの主宰者は、家から国家まで、いわゆる社会集団の長が行っていましたが、のちに神職が職業として成立すると、しだいに神職がとり行うようになりました。
それでも集落内の特定集団が順番で神事行事を主宰したり神主をつとめたりする頭屋や年番神主の制度が今日でも残っている祭りもあります。
また、神霊をよびむかえる祭場は、清浄であることが必要です。祭る者も清浄をたもたなければなりません。それで身体をあらい清めたり、してはならないことや食べてはならない物をまもる禁忌(きんき=タブー)、精神統一をはかる鎮魂などを普通行います。そしてこの期間は物忌(ものいみ)といわれますが、祭られるものの地位が高いほど物忌は入念におこなわれ、期間も長くなるようです。
祭りはその対象となる神霊が来臨してはじめて成立すのですから、祭場にはそのための目印として、柱や旗、幟(のぼり)などが高くかかげられます。この目印には神霊がよりつくとされるので、依代(よりしろ)とよばれます。例えば、祭礼にひく山車の名は、その中心にある鉾(ほこ)の上にでた飾りの「出し」に由来するのですが、この「出し」も依代といえます。
神霊は暗闇に来臨すると信じられていたために祭りで本来重要視されたのは、今日では祭りの前夜祭と思われている宵宮(よみや)でした。そして、神霊の送迎は、のちに山車などによって居住地域をめぐる風習を生んでいったのです。
こうしてみてみるとねぷた祭りは、さまざまな風習が混交したものといわれますが、この様々なやり方を、祭りとしての性格に照らし合わせて確認してみたくなります。
(参考文献 マイクロソフト エンカルタ エンサイクロペディア97)
さて民俗学からみたねぷた祭りを考える前に、もう一つ知識を増やしてみたいと思います。それは、副題にもある暦(こよみ)のことです。
日本では、永らく太陰太陽暦(いわゆる旧暦)が使われていました。日本書紀によれば『百済の僧観勒(かんろく)が来朝して、暦、天文、地理、遁甲(とうんこう)、方術の書を伝えた』(602)とあります。当時は、外国からの最新科学として採用され、暦は、太陽と月の動きを観察し適合させるもので、天文は、日食や新星などの天体の異常を解釈する占いのような性格でした。
また、旧暦は、太陽と月の運行に密着するように作られ、太陽の運行を正確に計算して一年の長さを決めて、それを二十四等分して二十四節気といって農耕などに必要な季節変化の指標となるように作られたのでした。
月の満ち欠けの正確な値を出し日付を決めるので、一(朔)日は必ず新月で、十五日は必ず満月となり、月食まで予想し、中国でも、これがはずれると良くない暦とされたのです。
日本では、宣明暦(862)に改暦されてから、渋川春海(はるみ)の努力で貞享暦(じょうきょう)に、改暦(1685)されるまで八百年余りも改暦されませんでした。
さらにこの間、純粋な中国天文に加えて、密教系統の七曜二十七宿の宿曜経の影響や、九宿十二宮の考え方などが混じってきていました。また、
日付けのほかに、四柱垂命のように節気と干支(えと)を組み合わせて、日の吉凶をしめす暦注がつけられていったのでした。
明治政府は、西洋化の考えから、明治六年(1873)から現在のグレゴリオ暦(太陽暦=新暦)を使うように制定しましたが、なかなか根付きませんでした。戦後昭和30年代には、新生活運動等が起こり、寺院が八月十三日をお盆の入りとして、いわゆる月遅れの盆の地域が現れ、黒石でも昭和34年(1959)、これまでの旧暦で行われてきたねぷた祭りが、月遅れの八月一日からを開催されました。
話が本当に難しくなって恐縮ですが、いわゆる旧暦は、太陽の運行を基本に月の運行を合わせて、一日はいつも新月という事を大切にしていたということなのです。ですから旧暦七月一日は、新月で真っ暗な闇にねぷたが浮かび上がったのでした
(参考文献 岩波新書 日本の天文学 中山茂著 1972)
ねぷたは、「眠り流し」とも「七夕祭り」だとも言われます。今回は、「眠り流し」の行事を考える前に、「七夕祭り」について考えてみたいと思います。
私たちの感覚では、幼稚園などでも七夕祭りをやっているのでピンときません。ねぷたはねぷたであるし、七夕祭りは七夕祭りという感じがして、とても納得がいかないのが事実だと思います。
さて先にこのタイプの七夕のことから入ります。この祭りは、元々は中国に起源を発しています。中国では、一月一日、三月三日、五月五日、七月七日、九月九日を五節供といい、日本では奈良時代には、シチセキと呼ばれ貴族の行事となり、やがて書道の上達とか恋愛の成就などさまざまな願い事をするようになりました。広く庶民の間にも行われるようになったのは、江戸時代からでした。さらに、このような星祭りは、いわば都会風の七夕であって、地方の村々ではこのような星祭りを行わないところも多くて、していた所でも星祭りとは全く別個の行事と思われます。
それがもう一つの七夕で、こういう村々の七夕の特徴は、星に願うより、水浴びに関する行事が多いのです。
たとえば、この日には必ず牛馬に水浴びをさせるとか、子供にも水浴びをさせる、家具類を洗う。井戸さらいをする。ワラ人形や飾り物を造って流すなど、七夕の日には水に関する習俗が、全回各地に多く見られます。さらに、多くの地方では七夕笹は六日の夕方に飾りつけ、七日の朝方には流してしまい、七日の昼すぎには、何もしません。
ということは、七夕の行事にしては日取りが一日早く星祭りとは名前だけの行事と思われます。
このように、七夕に本来の意昧での星祭りが行われていたのは主に都市であって、村方では七夕とはいっても、全く別の内容の行事が行われていたと考えられます。
では、何だろうかというと、わが中元祖霊祭(ちゅうげんそれいさい)の前斎(ぜんさい)行事の名残りと考えられるのです。水に関係のある行事が多いのは、農民祭(農耕儀礼)の一環としての水の儀礼にかかわりがあるためで、水浴びをしたり、物を洗ったり、流したりするのは、この日がケガレを流すためのミソギの日であったことを物語っています。身についたケガレを清めるために水浴びをしたり、他の物に託して水に流す儀礼が禊(みそ)ぎであって、わが国では広く行われていました。(次回、中元祖霊祭について)
(参考文献 弘前図書館後援会 ねぶたの歴史 藤田本太郎著 1976)
いかめしい漢字で一体何だろうと思われますが、今も行われているお中元の始まりの言葉です。さて村方の七夕との関係で、中国の道教の考えふれてみます。中元の時期に祖先をおまつりするということです。複雑なのは、この考えが日本でも中国でも仏教と一体化してしまって、道教といわれても「えっ何?どうして」という感じが私自身もしてしまいます。庚申様(こうしんさま)の信仰も道教から来たと言われます。
いわゆる仙人の世界の道教は、不老長生をねがう中国の土着宗教で、六世紀にはほぼ成立していましたが、その始まりは、後漢のあたりからです。儒教、仏教とともに三大宗教のひとつとして古くから人々に大きな影響をあたえつづけてきました。
唐の時代は儒仏道の三教がひとしく盛んでしたが、とくに道教は朝廷の庇護をうけ盛んになりました。
道教では大切な祭日は一年のうち、正月十五日の上元、七月十五日の中元、十月十五日の下元、であわせて三元といいます。この中元には、道士が道教の教典をよんで亡者を済度する。またこの日は仏教でも盂蘭盆(うらぼん)の日にあたり、寺院では法会(ほうえ)をおこなってまよえる亡者を救済し、六世紀には道教・仏教共通の祭日となりました。中国では、各家は墓参りをし、寺院では諸霊が供養をうけにくるための法船をつくって夜に焼き、南宋以後は燈籠流し、元、明ころからは子供たちが夜、荷葉灯、蓮花灯をともして街をねりあるいたが、今はおとろえている。
このように七月十五日に対して、中間の七の日は、前もって清める日として(前斎)としてとても重要でした。
「いつどこで誰が始めたのか」というとうやむやな事が多いのが、民俗学での歴史です。ねぷた祭りも「いつどこで誰が」と問われると答えようがありません。様々な風俗、信仰が一体化して混じっています。前回の村方の七夕にしても、いわゆる技術向上の願いを全くしなかったかというとそうでもありません。しかも、江戸時代のねぷたの運行風景を見ても、二星祭りとはっきり書かれています。豊年祭とも書かれています。ねぷた祭りと書かれているねぷたは無いのです。
次回は、盂蘭盆について
(参考文献 マイクロソフト エンカルタ エンサイクロペディア97)
さて中元祖霊祭に続いて、盂蘭盆ですが、別段旧暦で行うので、今の読みがあるのではありません。
もともとこの名前で呼ばれ、七月十五日を中心に、祖先や死者の霊を家にむかえて供養する仏教行事のことをさします。私たちが言うお盆のことです。東北の一部や北関東、中国、四国、九州地方は旧暦で、東京周辺や東北の一部は新暦で、北海道と新潟、群馬、埼玉、千葉各県以西は新暦の月遅れ(八月盆)でおこなう地域が多いようです。
盂蘭盆の起原については二説あります。
ひとつはのサンスクリット、ウランバナの漢字音写説で、釈迦の十大弟子のひとりが、釈迦の教えにしたがって供養、祈願したのが盂蘭盆会の始まりであるとする、仏教起源説です。しかし、釈迦誕生以前から、インドで行われていた風習とする考えもあります。
もうひとつは、死者の霊を意味するイラン語系のurvanという語に由来し、イラン系ソグド人が中国につたえ、畑作農業の収穫祭として中元と結合し、それが仏教にとりいれられたという説です。
中国では、盂蘭盆の行事は、仏教行事としても六世紀すでに民間にも普及していたようですが、日本では、六0六年に寺院ではじめて七月十五日の斎会(食事を供する法会)がおこなわれ、奈良時代には朝廷の恒例仏事となり、平安時代には、広く人々に知られ、寺院での代表的な盆行事となりました。
行事としては、一般的に七日(七日盆)には墓掃除、井戸替や大掃除などをし、十三日夕方までに精霊(しょうりょう)をむかえてまつる盆棚をつくり、仏壇から位牌(いはい)を仏壇近くの盆棚にうつして供花や供物、キュウリやナスでつくったウシやウマなどをそなえる。十三日の夕方は家の前で迎え火をたいて精霊をむかえてまつり、提灯(ちょうちん)や燈籠もともされる。精霊をおくる十五日の夕方から十六日にかけては送り火をたき、川や海辺では小さな燈籠をながして霊をおくる。なかでも京都の大文字山の送り火や長崎の燈籠流しがよく知られた行事だと言えます。
道教の行事と仏教の行事はよく似ているのですが、基本的な考え方の背景は大きく違っています。また、六、七世紀に日本は中国文化を日本国家体制の完成のために学び利用した時期でもありました。
次回は、眠り流しについて
(参考文献 マイクロソフト エンカルタ エンサイクロペディア97)
上に扇の乗った物 分銅組若者日記より 江戸時代の黒石ねぷた絵
なぜ眠り流しが、問題かというと、これまでねぷた祭りの起源説として、全国各地にある同じ様な風習が、各地で様々な形で発展したという考え方があるからです。また、なんと行っても語源が、近いのには、間違いがありません。これについては、柳田国男が、各地の風習を採集しています。
さらに、眠り流しの元の考え方として、我が国固有の文化として神送りの行事が本来存在していて、それは、「ミソギ、ハライの風習がそうである。」という考えが、あるからなのです。
ところで、「日本社会の歴史」(岩波新書 網野善彦著 1997)を読むと、どうも古代日本は、日本海沿岸地域と深い関係があったようで、どこまでを日本固有といって良いのかと考えると、かなり無理があるように私は、思っています。
さて眠り流しですが、「暑さのきびしい、しかも農作業のはげしい夏季におそってくる睡魔という目に見えない魔物を追い払うための行事」とされています。その源として、「ハライのためにカタシロなどにケガレを託して水に流してやる神送りの行事が、夏季の睡魔を追い払う行事として発達したもの」とされます。
各地の眠り流し行事は、ところによって呼び名や内容が少しずつ違います。
以下行事を紹介してみます。
長野県では七タの早朝近くの川や池に水浴びに行く、ことを、「オネンプリを流す」ネンプリ流し」「ネムリ洗い」などといい、単に水浴びするだけでなく、一日に七回水浴びをするとか、村によっては流し火と称して、ワラやムギワラなどで作った燈籠を流して、燈火が遠くまで消えずに流れで行くほど、夜分にねむくならぬといういい伝えがあるという。埼玉県では「ネボケ流し」「ネム流し」などといい、早朝若者(男女)が、川辺に集って、合歓木(ねむのき)と大豆の葉を水に投げこみ、「ネムは流れよ、まめの葉はと
まれ」と唱え、これが終ってから水浴びをする風習があった(熊谷地方)などなど。これらは、村方の七夕といって良いのですが、起源の考え方に差があります。
といった具合ですが、このネムがネムタとなり、ネムタは、流れよと理解すると、「ねぷた燈籠」を「ねぷた」を呼ぶいわれと考えられます。また、これらのはやし歌が、ねぷた祭りのなのか日の歌に共通と感じられた方々も多いでしょう。
(参考文献『弘前ねぷた』ー歴史とその製作ー1983年発刊 藤田本太郎主筆分)
いろいろ横道にそれた感じもしますが、これまでのことから、ねぷた祭りを前述の祭りの基本に従ってまとめてみたいと思います。
まず、誰をまつる祭りなのかが問題になります。前述したように、祭りは、神や祖先の霊などある対象と相交わる、交感する事が第一の目的です。その意味では、この対象は旧暦七月十五日にあります。中元、盂蘭盆でむかえる祖先がその対象と言えるでしょう。
そして、このために行う物忌、ミソギ、ハライの期間が、七月一日から七日だったのだと考えられます。従来一年を大きく分けると、正月の一月一日、そして半分にあたる七月一日は、正月並みに大切な日でありました。現在の大晦日行事と同じように、六月三十日にはケガレを払う行事を今でも行うところがあります。これが茅(かや)の輪くぐり等の風習です。
ですから、正月の最初の七日間と、七月の最初の七日間は、同じくらいの重みがあったと考えられます。してみるとご先祖様はもうすぐやってくる。もう半年を無事に過ごしたいと思うのは、人情として分かるような気がします。それに、季節からみても収穫に向かうのですから、これまで半年のケガレをハライ、収穫を願う必要もあったのは、想像に難くありません。(江戸時代の黒石ねぷたには、豊年祭とも書かれていた。)
ミソギは、水などでケガレを落とすことを指しますが、ハライは、何か物(アガモノと言う)にケガレを集めてハラウ事を指します。
ねぷたの場合、ねぷた本体はアガモノで、ケガレを集める物です。これとともに、なのか日には、川でねぷたを洗って、ハラッタのです。体も川で七回洗ったりしました。
何やら七夕とかもあって、色々お願いするとかなったりもするとなれば、七夕とも書いておこうという気にもなったのではないでしょうか。
このように、ねぷた祭りは、様々な信仰、言い伝えを背景にして、町方が豊かになるにつれて、賑やかに壮大になって、発展しここ津軽に独特の形で発展継承されて来たと言えますが、本来は、町のケガレをねぷた本体に集めて、ねぷたを水に流しケガレをハラウために行う行事であった言えると思います。ですから、ねぷたは、流すために行われたと言えます。
1998 浅瀬石ねぷた愛好会
江戸時代の奥民図彙(おうみんずい)の絵の中に「石投無用」の文字が見えます。私の記憶の中でも、昔はねぷたにこのように書いてあったように思います。単純に「いたずらをするな。」くらいの意味にずっと思っていました。
しかし、論攷の中にも印地(いんじ)打ちの項目があってこのことに触れてあります。石投げ無用とは、単純に石を投げるなという意味ですが、民俗学的にみると、様々な文書に、石投げのことが祭りと関連した行事として記されています。それは、小正月や五月の節句の時などに多く行われたのです。つまりそれは、ケ(日常)の時に対する祭りのハレの時に行われたのでした。そして鎌倉時代以降全国に広がり、石合戦となって子供達の遊びとなりましたが、現在ではほとんど行われることなく、年中行事として伝わる程度になっています。
また、現在まで残っている祭りは、川原を挟んで行われ、勝者に良いことが起こるといった占いの行事として残っています。
網野善彦によれば、石投げは、江戸時代元禄時代まで記録され、それまで、たびたび禁止されています。また、氏は、子供の遊びとしての石合戦。祭礼、婚礼のハレの行事にあたっての石打。一揆打ち壊し、騒動の石打。弱者に対する礫(つぶて)。手向けの礫。天狗礫などの神意に関わるもの。忍者などの名手の礫。の六つに分けて考察しています。こうしてみると、石投げには、意味があったように思われます。
ねぷた祭りも、ハレの空間であったし、礫を打つことによって、緊張感をまして、喧嘩までいってしまような空間が想像されないでしょうか。黒石でも弘前でもねぷたと喧嘩は、記録されていますが、これは、祭りのハレの空間でのトランス(精神興奮高揚状態)された状態の発露だったのでは無いでしょうか。もちろん、地域共同体が他者から差別化することによってその共同体の連帯を強める要素も否定は出来ないのですが。
もうひとつ、ねぷたと山車の関連については関係が指摘されていますが、ねぷたは、一人で持つものから、何十人でかつぐものまで作られ、これをなかなか台車に乗せなかったのには、意味があったのではと、思います。一種のよりしろであったので、かつぐものだったのではなかったのでしょうか。
こんな風に考えてみると、ねぷた祭りももっと様々な角度から考えてみる必要があると思わてきます。
(参考文献 異形の王権 網野善彦 平凡社1993)
およそ眠り流しが起源とされるものは、県内では、むつ市でも深浦町でも江戸時代から記録され、現在までねぷた祭りは行われています。秋田県でも、鹿角市花輪のネプタ、鷹巣町のネプタナガシ、横手市のネムリナガシなど各地に残り独特の発展をしています。
今回は、市役所文化課の鈴木学芸員のご協力で、能代市が平成十年三月に発行した『眠流(ねぶなが)し行事能代役七夕』(能代のねぶながし行事記録作成委員会)を入手できました。興味深い事が結構ある中で、簡単ですが、引用紹介してみたいと思います。
まず現在の能代の役七夕(やくたなばた)の会期は、八月一日より八月七日までで、江戸時代からの歴史を持ち大変な賑わいの中で行われています。八月一日に産土神社である日吉神社より御幣(ごへい)を戴き会所と呼ばれる場所に安置します。それから会所を中心に様々な準備がなされ、八月六日には市内で写真のような鯱(しゃち)人形型の燈籠を運行し、同七日の夜に米代川に流し焼いて終了する形態になっています。江戸時代には形式が完成され、様々な人形題材だったものが、城の形が流行し、その上の鯱鉾(しゃちほこ)の鯱が主役となったようです。また、市内五町で持ち回り輪番制で主役を交代するやり方で、そういう意味で『役七夕』と呼ばれます。また、能代では台車に乗せて、縄をつけて大勢で曳く形態にもなっていました。
代邑聞見録(1741)では、「童部共五人十人組合燈籠つけ太鼓、鉦、笛にて、「ねふねふ流れ豆の葉にとまれとまれ」と、囃子小町を廻る。中略。是をねふ流しといふ。牛女祭る夜といふにより、眠流しといふ事にや。一夜不眠、朝に成て川へ出て、垢離をかく。後略」ねぶりながしは、夏の眠気を覚まして秋の豊作を析願した祭りであり、「ハライキヨメ」行事でもあったことが分かります。特に当時子供が中心だったことは、注目に価いします。
サン遊亭扇橋という落語作家が天保十三年(一八四ニ)に能代で見聞した七夕燈籠をその著作「奥の枝折」に次のように書いています。
「前略。津軽弘前黒石より青盛辺にも有之よしに御座候。後略」
前文は、能代の祭りの様子なのですが、その中のこの文章は、本当に貴重な記録で、江戸末期に津軽の祭りとして弘前・黒石・青森のものが能代の地でも同じように有名だった事が分かりとてもうれしく思います。
(参考文献『眠流(ねぶなが)し行事 能代役七夕』 能代のねぶながし行事記録作成委員会製作 1998)
これまで、ねぷた本来の性格を民俗学的見地から探ってきましたが、これからは、歴史の中のねぷたを追ってみたいと思います。
黒石のねぷた祭りを中心にしますが、その前にどうしても、弘前の歴史を簡単にあたっておく必要があります。
古い記録では、ねぷた祭りに関係すると思われるものは、ふたつです。これらの記録は、ねぷたそのものと言うより、民俗学的な見方に関係した記録と言えるでしょう。
「流し松明(たいまつ)見物仕候(永禄日記 1570)」これが初見であり、年代を比べてみるとあまりにもかけ離れ、ねぷた祭りと田村麻呂の時代(八世紀頃)を考えると、やはり伝説だということが明白です。
「津軽為信が、京都に滞在したおりに、盂蘭盆会に「津軽の大燈籠」を出す。(津軽偏覧日記 1593)」これは、「京都あたりの人がやっているので、田舎侍もちょっと大きいのを出してみよう。」と記述したのが本当らしいのですが、これをねぷたの最初とする説もあります。
津軽信寿、織座でねむた流し観覧(津軽藩日記 享保七年 1722)
津軽藩日記(御国日記)は、1675年から書き続けられていますが、この時までねぷた見物の記録はありません。突然どこからか伝えられて始められたと見るのは不自然で、このあたりから時代が豊かになり、このような祭りが、盛んになったと見るのが自然です。また、この頃から、和紙の生産が津軽でも盛んになり、木ローソクもウルシ、ハゼの木の実から製造され、津軽塗りのウルシもローソク製造に使われたと考えられています。なんとか、庶民もこれらの材料に恵まれたと思われます。この頃、ねぷた見物の事は、何回か記録されています。
奥民図彙(おうみんずい)を比良野貞彦(ひらのさだひこ)が絵図面解説付きで記録する。(天明八年 1788)この記録まで、六十年ほどねぷたに関する文書は欠けています。しかし彼は、その様子を描き意味について解説までしています。
菅江真澄(すがえますみ)、紀行文「牧の朝露」にて、むつのねぷたの様子を記録する。(寛政5年 1793)
平尾魯仙(ひらおろせん)、函館に遊び函館のねぷた祭りの様子を記録する(安政2年 1855)
平尾魯仙、弘前のねぷたの様子を「津軽年中風俗画」に描く。(文久年間 1860年頃)
興味深いことがいっぱいあるのですが、ここでは紹介だけをして、興味のある方は、参考文献をあたって下さい。
(参考文献『弘前ねぷた』ー歴史とその製作ー1983年発刊 藤田本太郎主筆分)
(参考文献『津軽ねぷた論攷 黒石』1995年発刊 笹森建英著)
さていよいよ黒石ねぷたですが、その前に黒石藩の成立を確認しておきます。
明暦二年(一六五六)津軽信英(のぶふさ 津軽為信の孫)黒石に五千石で分地、領主となる。文化六年(一八○九)一万石に高直りし黒石藩成立(藩主 津軽親足 ちかなり)
事情としては、黒石藩主から弘前藩に藩主として寧親(のりちか)が呼ばれ本藩を継承した関係から、弘前が1808年に十万石に高直りした時、弘前藩主が努力し、黒石も藩として参勤交代するようになったのだと言われます。
佐藤雨山(郷土史家)は、「黒石地方誌」(1934)に天明四年(一七八四)の凶作について書いています。その中で、「七夕の祭りが例年の通りに賑わしく行われた、盆踊りは淋しく、空腹の者は見にも出ない、食べ物に不自由ない者だけが踊った。」と、「山田家記」から引用しています。
黒石では、弘前の文書とは違って、一度も「祢ムタ」「ねふた」などの標記はなく、ねぷた行事をずっと「七夕祭」と表記していたので、この頃には、黒石でもにぎやかにねぷた祭りが行われていたと考えられます。
奥民図彙(おうみんずい)(1788)のころとほぼ同じ時期ですが、必ずしも同じようなやり方であったかは確定できません。また、この絵図では、ねぷた本体に絵柄は描かれてなく、大きく「石投無用」などと字が、書かれているだけです。してみるとねぷた本体の字は、現在もその名残りとして重要なのかも知れません。また、いつ頃から、どんな絵柄がどんな理由で描かれるようになったかも興味の対象となります。
さて、江戸時代のねぷた祭りを伝えるものは多くはありません。その多くが、今で言う官が記録したものなので、庶民の記録は、殿様がご覧になったりしないとでてこないのです。
ところが、黒石には、江戸時代のねぷたの絵柄が100点存在しています。それは、「分銅組若者日記」(1831から1871)が現存していたお陰です。しかも、庶民の側から書かれたものなので、当時の風物、暮らしぶりが良く分かる当用日記なのです。
(参考文献『津軽ねぷた論攷 黒石』1995年発刊 笹森建英著)
現在でも、ねぷたの運行には消防の半纏(はんてん)を着た人が付いて歩いていたりします。これは、単純にねぷたが昔ロウソクで危なかっただけの理由ではありません。黒石では江戸時代後期には、ねぷたの運行は、消防組が取り仕切っていました。
この消防組は、本来民間の組織で、若者を集めて火消しをするのですが、そのほかに色々な行事を取り仕切り、読み書き算盤を若者に教えたりもしていました。青年団風の組織を想像すると近いかも知れません。
黒石では、文化二年(1805)山形町出身の宮地という人が、江戸まで行き神田十八番の纏(まとい)持ちまでやって帰黒し、「一六蕎麦」の名でソバ屋を営業しながら、いろは組を組織したのが最初でした。その後、天保二年(1831)従来の組織を改組して、丸山組(いろは組、山形町)、角元組(元町)、丸中組(中町)、井桁菱水組(鍛冶町)、分銅組(上町)の5つの組織となりました。そしてこの時黒石藩は、費用を支給し組頭を任命して、「町火消し」から「ご用火消し」となりました。
各消防組も日記を付けていたとは思いますが、現存するのは、「分銅組若者日記」で、この年から明治4年(1871)まで書き継がれてきたのでした。
さて、歴史的出来事の前にこの100点の絵について簡単にまとめて起きたいと思います。
まず黒石の江戸時代後期のねぷたのほとんどは、一人持ちから、何人か持ちまで、かつぎねぷたと思われる。(絵には下方が描かれていないものもあるので断定は出来ない。)
額(がく)の上に人形(らしい)を乗せる構造が多い。(立体的に描かれていないものが多いので断定は出来ない。但し幕末の弘前ねぷたを描いた平尾魯仙の絵でもほとんどが人形なので、この可能性は大きいと思われる。)
また、黒石人形ねぷたの特徴とされる「みおクリ」と記されたもの(1842)が一点だけですが、すでに存在もしていた。
大きさで一番大きいものは、山形町組のものが(1841)高さ9間(16.2m)幅3間(5.7m)と記されています。
この日記は、私も見せて戴きましたが、私などに読めるような書体ではなく、おまけに薄い紙で、裏写りをしていたりして判読しにくいものでした。でも、豆占いとか面白い事がいっぱいありました。詳しくは、参考文献を参照して下さい。
(参考文献『津軽ねぷた論攷 黒石』1995年発刊 笹森建英著)
さて、前回は簡単に絵について触れましたが、今回は、江戸末期の黒石ねぷたの歴史の中で、有名なお話を載せます。
天保十五年(1844)七月六日に町奉行からお触れがあり、「藩主が七夕燈籠を観覧したいので運行しなさい。」と命令があったので、藩内五組や町家がだしたので、藩主から各組は酒を一斗ずつ賜ることとなりました。しかし、その後に燈籠が三尺を越えていた理由で、罰せられました。
それは、町年寄と名主の四人が五日間の戸閉、若者頭は禁足のうえ七日間の戸閉、小頭は他処出差し止め閉の処分でした。「分銅組若者日記」にはこの年の絵は描かれていません。さらに、面白いことに、これから後しばらくねぷたの絵は描かれても、大きさの記述がなくなります。
弘化三年(1846)七月、各町内では苦い経験をしたので、いずれも小さなネプタばかりわずかに出しました。藩では、「七つ時から大手西の両門を開放してネプタ上覧と云ふ事にしました。」(佐藤雨山)
弘前でも規定があったようですが、黒石藩内には、ねぷたの運行に関する規定が存在していました。簡単に紹介しておきます。
「七夕燈籠の大きさは、三尺を越えてはならない。また、運行の場所や日程についての細かい規定があり、さらに喧嘩口論をしてはならない。」などと定めてあります。
とはいえ、嘉永五年(1852)には、山形町組では扇を額(ガク)の上にのせた燈籠を出しました。高さは全体で四間位であり、扇を開いた部分の幅は二間くらい、一人持ち用の棒が付いています。、黒石に残された百点余の絵の中で扇を型どったのはこの一点なので、扇ねぷたの歴史を知る上で貴重な資料の一つと思います。
また、黒石では、藩のご家臣も七夕祭りに参加して燈籠を出したりしています。例えば、御家中として三方に載せたニ本の御神酒とっくりの燈籠がこの年記録されています。
喧嘩に関して大きい喧嘩は、文久三年(1861)中町と山形町が、ねぷたがすれ違うことができなくて喧嘩となりました。藩の仲裁で仲直りするまで、三ヶ月間も、もめていたようです。
ねぷた運行本来の意味から考えると、町内の魔を集めるだけで良いと思われますので、よその町内にまで出掛けて喧嘩をするのは、どうもこれも祭りのハレの部分かと思われてきます。
(参考文献『津軽ねぷた論攷 黒石』1995年発刊 笹森建英著)
しかし、明治十年(1877)内藤官八郎の『 弘藩一統誌 珍事録』の「 佞武多ノ事」の項に、明治十年の西南の役に官軍が勝利したことを祝い佞武多(ネプタ)を復活し、さらに祝いたいと願い出たら、一丈三尺以下は許可されたとあります。このネプタの漢字の当て字は、これ以前には見られないので、彼の創作ではと考えられます。
また、正式には明治十五年(1882)に、「佞武多取締規則」が制定され、この年に解除されたとみる説もあります。内容は、「ねぷた一個毎に三人以上の取り締まり役を立てて、闘争や公衆の妨害はしないと明記し、三日前までに届け出ること。大きさは、高さ一丈八尺幅一丈三尺以上は許可しない。」事となりました。明治三十一年(1898)には高さ八尺以下と改正されました。
(一丈は、十尺)
それでも、禁止されたからといって、おこなっていなかった訳でもありません。明治十一年(1878)には、イサベラ・バード女史の『
日本奥地紀行』に黒石ねぷたの記述があります。(次回詳述)また、明治十三年(1880)黒石藩士の子 榊喜洋芽(さかききよめ)の日記に、「今夜はねぷた盛んなり。旧暦七月六日。」の記述が見られます。(鳴海静蔵氏発行「歴史と観光」)
時代は飛びますが、明治四三年(一九一〇)の弘前新聞に、「黒石、黒石警察署の佞武多取締方針は取締規則通り即ち土台より八尺以下四人持ち以上の運行を許さず金銭物品を請求す可らず運行は十二時限りとする由」の記事があります。
規制は続いていますが、ねぷた祭りは盛んで、夜中過ぎまで行われていたと思われます。また、金銭物品を貰うなとあるので、祝儀の請求もあったようです。
ところでねぷた祭りは、江戸時代から子供も大人も一緒に参加していたようです。
(参考文献『津軽ねぷた論攷 黒石』1995年発刊 笹森建英著)
紀行文「日本奥地紀行」(1880年発刊 1973年邦訳)を書いたイザベラ・バード女史が、日本に来たのは明治十一年(1878)の春で、四十七歳の時でした。英国ヨークシャの牧師の娘であった彼女は、小さい頃は、病弱でほとんどをベッドで過ごしていました。彼女は二十三歳(1854)の時、健康に良いという医者のすすめでカナダとアメリカを旅しました。そしてこの時、「英国女性の見たアメリカ」という本を出版しています。その後「ハワイ諸島の六ケ月」(1875)を出版し、日本にやってきたのでした。
彼女の旅行の目的は、西欧人の行ったことのない日本の北部と北海道を踏破し、日本人の生活様式を知ることでした。ですから彼女は、庶民の生活に大きな興味を抱いていました。そのために、通訳の伊藤を雇い、彼は、従者兼通訳となり料理番兼洗濯屋ともなり彼女にとって良い通訳でした。一行二人は、先頭の馬に、彼女、そして伊藤の馬、三頭目には、色々な生活雑貨を積んで六月十日には粕壁に着きました。その後新潟、山形、秋田、青森と旅行し、黒石に着いたのが、八月五日でした。
黒石で彼女は、中野に行ったり、温泉を見たりしています。当時の黒石を知るのには、とても良い資料です。どこに宿泊したかというと、中町鳴海酒造店向かいのストゼンの二階では無いかと鳴海静蔵氏は、想像しています。前町は大火のあとで当時旅館は、無かったのがその理由ですが、私も見せて戴きましたが、紀行文の挿絵の鏡そっくりの鏡が鳴海酒造店に現存しているのもその理由です。
さて、「日本奥地紀行」の黒石ねぷたに関する記述を高梨健吉訳から以下に引用します。
「それはとても美しく絵のようであったので、私はそこに一時間ほど立ちつくした。この行列は、八月の第一週に毎夜七時から十時まで、町中を練り歩く。行列は大きな箱《というよりむしろ金箱》を持って進む。その中には紙片がたくさん入っていて、それには祈願が書かれている《と私は聞いた》。毎朝七時に、これが川まで運ばれ、紙片は川に流される。(中略)私は、このように全くお伽話の中に出てくるような光景を今まで見たことがない。提燈の波は揺れながら進み、柔い灯火と柔い色彩が、暗闇の中に高く動き、提燈をもつ人の姿は暗い影の中にかくれている。この祭りは、七夕祭、あるいは星夕祭と呼ばれる。」
(参考文献『日本奥地紀行』平凡社 東洋文庫1998 21刷 )
イザベラ・バード女史の黒石に関係した文章はとても興味あるものが多いのですが、東北各地でも彼女のことは、とても大切に扱われています。
さて、弘前では明治のねぷた禁止令解除以降あたりに扇燈籠が現れたのは確かなのですが、いつ誰がというと、明確な書き物があるわけではありません。黒石でも弘前でも扇らしき絵は、江戸時代末期に見られるのですが、両者とも額(がく)の上のものでとても今のような立体には見えません。
黒石では明治期に関して扇燈籠の記述が見あたりません。果たして人形だけであったかは、疑問です。ただ、さすがの文明開化で、ねぷたの大きさを規制したのは、電線であったことも事実です。黒石では、明治二六年(1893)から電線が架設され始めています。ただ弘前の例を見ても電線を切るねぷたは、たくさんあったのです。
また、明治期の黒石の喧嘩としては、明治三二年(1899)『歴史と観光』に横山慶太郎翁の話として元町のねぷたのことがあり、人形は安珍清姫で勾欄(こうらん)は二重にし、
高さは一三間で横幅は三間あった。運行の時、元町の今谷商店付近で倒れてしまったが、惨事に至らなかった。運行の途中、中町のネプタと鉢合わせになり、派手に 喧嘩が行わた。として記録されています。この時期には、黒石でも高さをきそうネプタが出現していました。
また、津軽新報には、昭和二十八年に福士一郎氏の文責で、三勝翁縦横談が掲載され、翁(おきな)の記憶から、江戸から明治までの黒石ねぷたの勇壮な様子が様々に語られていることも、民間の貴重な記録であると思います。機会があれば、当紙で是非再掲していただきたいと思います。
七日日(なのかび) 明日は続(俗)に七日日と唱へ 佞武多(ねぷた)流しに河原へ往(い)き又た昔は七度食事し七度水を浴びる日なりと言ひ傳へ(つたえ)たれ共(とも)掛(か)かかる不衛生の事は断じて行う可からず。弘前新聞の明治三十九年(1906)の記述です。まだ、村の七夕の伝統が息づいているのを感じます。川の水は不衛生なのではなく、不浄を流す観念でした。
こうしてみると、明治期にはネプタが大きく変化していった時期と言えます。 官制の禁止、扇燈籠の出現、人形の大型化、電線の出現、など体制が変わり生活が変わり考え方が少しずつ変わってきた時代でした。ただ、ねぷたのはやしについては、多くは分かっていません。
(参考文献『津軽ねぷた論攷 黒石』1995年発刊 笹森建英著)
今回は、弘前新聞(1897から1941)の記事を引用して大正黒石ねぷたのことを考えてみます。もっとも、黒石に関するものはそんなに多くありません。(「」書きは、弘前新聞からの抜粋)
大正元年は、明治天皇が七月三十日に亡くなったので、ねぷたは禁止されました。大正五年(1916)「 黒石の侫武多取締扇灯篭は全廃すること。金品等強制を禁ずる事。子供の扇燈篭をもって戸ごとに蝋燭強制は学校において一般生徒に訓戒すること。侫武多を悪評し互いに喧嘩口論せざるものとす。」
黒石でも扇ねぷたがあり、警察が、扇燈籠を禁止したのは、多分喧嘩を抑止しようとしたためでしょう。この時代も、ネプタは、かつぐものでした。また、子供達は扇ねぷたをもって各家から祝儀を貰っていたようです。
同年、「各町の侫武多・黒石町にては去る四日より侫武多を出し居れるが、元町の朝夷、上町の怪童丸、徳兵衛町の琴高は、何れも高さ二丈位の大侫武多にして観覧者の賞賛を博し居り。尚、右の外久丸酒造店の桃太郎、丸入酒造店の朝夷等もなかなかの出来栄にして富町は無論付近村落より
毎夜出づる観覧者は非常に多く空前の賑わいを呈し居れり」
江戸時代から、町方のねぷたは出ていましたが、今回は、具体的に商店の名前がでています。また、高さ二丈のねぷたは、規制違反です。各町内ごとにねぷたを出していたことや、近隣からも多くの見物人がいたことも分かりますが、全体の台数ははっきりしません。
大正六年(1917)には、「黒石消防に関係なき十五才以上の小若者六十余名出費しこの間の七夕に組侫武多を出せしに・・」の記事があり、同士が集まって人形ネプタを作り始めたようです。また、消防に関しては、大正十一年(1922)「黒石消防組役員会にて侫武多並びに盆踊りと岩木山参詣は一層盛大に行う事を決める。」とあり、消防が色々な行事に関係していたことも分かります。
またこの年、弘前に、津軽伯爵のお母さんがおいでになり、ねぷたの歴史で初めて電灯照明の特製のねぷたを作成しました。しかし、評判は良くなかったようです。
今のところ、黒石で一番古いねぷたの写真は、大正十三年の温湯の人形ねぷたですが、「黒石では、大正一五年花電車長さ十五尺巾七尺高さ六尺山形村温湯」の申請が出ていたことも記録されています。
(参考文献『津軽ねぷた論攷 黒石』1995年発刊 笹森建英著)
昭和初期は、不景気で、世界大恐慌が始まったのが、昭和四年(1929)。その後日本は、昭和十二年日華事変、十六年太平洋戦争と軍国主義を一色となりました。
このような時代の流れの中で、弘前では、この昭和四年から商工会議所主導で合同運行を開催し、祭りを盛り上げようとしました。しかし、昭和六年には、青森県でも銀行の休業などもあり、ねぷたは、さんざんでした。が、翌年には、ねぷたで景気を盛り上げようと、また、何十台もでたようです。
さらに、戦争に突入し、昭和十三年からねぷたは、中止されましたが、昭和十九年には、士気高揚のためと青森、弘前では、それぞれ運行されました。
これまでもそうでしたが、この庶民の祭りねぷた祭りは、時代の流れの中で、浮き沈みを経験してきたのです。
昭和初期の中で特筆すべきは、バッテリーねぷたの登場で、照明が電灯化されたのは、昭和十年頃とされています。
このような事情で、このころの黒石ねぷたの情報は、あまり多くありません。しかし、前回紹介した大正十三年のねぷた、昭和六年、八年のねぷたの写真が現存しています。
これらを参考にして、少し考察してみたいと思います。
三者共通なことは、第一に人形ねぷたで、ほぼ五段の高欄が、不自然でなく見られます。また、大人子供が、合い仲良く写真に収まっています。みんな鉢巻きをして、子供は、鼻におしろいを引き、祭りのハレの日を示しています。太鼓は、大人が体の脇の下あたりに持ち、現在のように台に乗せた太鼓は見あたりません。さらに、消防の纏、あるいは半纏を来た人がいて、今も見られる電線上げの長い棒とねぷたが燃えた時に、先に水を点けて消すという火消し棒(ササラ)が写っています。
大正のものは明らかにかつぎねぷたです。昭和六年のものは、車で引くタイプのようです。八年のは、どちらか分かりませんが、「天の川」、「鵲(かささぎ)の橋」と書かれています。この「鵲(かささぎ)の橋」とは、七夕伝説に関わるものです。現在では、「漢雲」とも書かれますが、これは、天の川と同じ意味です。
恐らく、大正あたりから黒石でもねぷた本体の五段の高欄などの様式化が完成していたのではと思います。
(参考文献『弘前ねぷた』ー歴史とその製作ー1983年発刊 藤田本太郎主筆分)
(参考文献『津軽ねぷた論攷 黒石』1995年発刊 笹森建英著)
もうこの時代から先は、皆様の記憶の端々に残っている事が、多いかも知れません。どこどこの誰さんが最初に始めたんだとかの話もあるかと思いますが、何かお話ししたいことなどありましたら、ご連絡下されれば幸いです。以下は、津軽新報の記事が参照されていますので、特に引用をカッコ書き致しません。
さて、黒石では、昭和二十一年鍛冶町 と馬喰町の青年団が合同で、戦後の沈滞ムードを一掃しようと、バッテリー電源の人形ねぷたを運行しました。写真を見ると大きな太鼓が二台写っていて、かかえてたたいたと思われます。大人が真ん中に大勢写っていまいすが、よく見ると写真の両端に子供達の顔がたくさん見えます。
昭和三十年の甲徳兵衛町の金魚ねぷたは、リアカーに乗ったねぷた本体の前のロープを持って子供達とがお母さん達も一緒に、記念写真に収まっています。子供が、腰のあたりでたたける小さな巴の印のついた太鼓も写っています。
現在ではなにも疑問を感じませんが、黒石でのねぷたの曳き手は、子供達とお母さん達でロープをつけて台車を曳きます。弘前も似ていますが、青森では、ロープをつけていません。
いつ頃からねぷたを台車に乗せて、ロープをつけて曳く様になったかは、はっきりしません。弘前では、昭和六年に台車に乗った人形ねぷたのイラストがあり、小さいながらもミオクリの絵も描かれています。黒石でも、昭和初期にはこのような形態になり、戦後は、ほとんどこのようなねぷた運行形態だったのではないでしょうか。
さて、黒石の市制は昭和二十九年ですが、昭和二十八年には、黒石夏祭りの一環としてねぷた祭りも組み込まれ大変盛況であったことが伝えられています。はっきりしないのですが、商工会議所で審査をしたのもこの年ではと考えられます。昭和二十五年には、黒石盆踊りに商工会議所も関わり、賞金を出しておりますが、昭和二六年黒石商工夏祭りの日程には、ねぷたは組み込まれていません。組み込まれたのがこの年で、その時賞を出したのでは想像されるからです。
また、不景気で参加ねぷたが減少したため前年審査が中止されたことから、昭和三十年から黒石青年会議所が合同運行審査を主催する事と決定しました。
(参考文献『弘前ねぷた』ー歴史とその製作ー1983年発刊 藤田本太郎主筆分)
(参考文献『津軽ねぷた論攷 黒石』1995年発刊 笹森建英著)
(参考文献『黒石よされ』1998年発刊 石沢清三郎著)
戦後日本は、世界の奇跡と呼ばれる程の経済復興をなしとげ、この十年間はなべ底不景気から岩戸景気へ、そして高度成長を遂げていった時代でした。昭和39年には、東京オリンピックが開催されています。
この時代での大きな変化は、まず、ねぷたが新暦(昭和34)で行われるようになったことと、道路交通法(昭和35)が施行されたことではないでしょうか。
ねぷた祭りが、新暦(8/1から8/7)で行われるようになったのは、前も述べましたが、お寺が、旧暦日程(7/13から16)の一月遅れで、盂蘭盆(うらぼん)を行う事としたからなのですが、この事情の他にアメリカナイズされた生活パターンを一種の憧れをもって受け入れる土壌があったことは、申すまでもありません。ごく自然に、新しい時代の流れとして旧暦の行事から、新暦の行事に移行していったものと思います。ちなみに、青森は昭和30年、弘前では、昭和31年から新暦で行われる様になっています。
もう一つの道路交通法が施行されたのは、六月二五日です。前も述べましたが、ねぷたの大きさや運行方法は、江戸時代より規制があり、運行に際しては届け出なければなりませんでした。明治十五年以降は、ねぷたは「官許」の札をつけて運行していました。明治三一年からは、高さ八尺(2.4m)以下でしたが、この年には、黒石では、「高さ4.5M以内幅3Mまでとし、子供ねぷたの運行には、大人の責任者が必要」などと規制しました。
さて、この子供ねぷたですが、古くは「子供ねぷた流しの喧嘩口論を禁ずる」の記述が津軽藩日記(御国日記)(1739)に見られ、相当古くからあったのではと想像されますが、大人と一緒に参加した子供を規制したものか、子供だけのものがあったかは、確定できません。
この時代は、小屋掛けは祭りの二週間くらい前からで、ねぷたも竹で骨組みをして泊まりがけで創っていました。
また、この時代のねぷた絵師として、片裏町の人形製作の山口十郎氏、同じく十和田通り、元町の北川弥市氏の名前は忘れられません。また、弘前ねぷたを革新した笹森節堂氏に師事した田舎館の金枝芳幽氏の優美な扇ねぷたも忘れられません。彼の指導で「ねぷた色彩講習会」がねぷたの質の向上を目的に開催されたのは昭和三八年で、この年「市役所職組」のねぷたも製作されました。
(参考文献『津軽ねぷた論攷 黒石』1995年発刊 笹森建英著)
益々ねぷた祭りが盛んになって、黒石ねぷたらしさが話題となり、現代化がなされたのがこの十年間でしょう。
扇ねぷたに関しては、障子のように一本一本骨を渡すものが多く見られたのが、黒石では外枠に一枚紙で貼るのが正式といわれこの方法が推奨されました。
人形に関しては、竹の他に部分的に針金を使用したのが、青森式に全体を針金で製作するようになりました。山崎恒雄、村元隆義両絵師が青森に勉強に行って、黒石の人形ねぷたに新風を吹き込んだのでした。当時は、針金に白玉粉を使用して紙を貼る方法も同時に導入されましたが、絵師に教えてもなかなか旨く貼れなかったものだと山崎恒雄氏は、教えてくれました。
昭和43年には、青年会議所では、子供ねぷたに力を入れ、さらにはやしの統一にも力を入れる方針の記事が見られます。
この子どもねぷたは、現在はほとんど参加が見られませんが、昭和46年には、子供人形ねぷた6台、同扇の部が16台の参加がありました。この年の合同運行参加台数は、40台ですので、その割合から、重点が置かれたのも当然だったのでしょう。台数的には、このあたりがひとつの底であって、その後だんだん増えて、昭和50年には、61台の参加数となりました。
また、当時のねぷたの運行状況をみますと、昭和初期からバケトなども見られたのですが、青森風にハネト賞なども設けられていて、若い男女が、浴衣を着てそろいの踊りを踊ったり、はねたり、ラッセラーのかけ声が混じったりしていました。五段の高欄のない人形ねぷたが現れたのもこの時代です。
はやしに関しては、黒石ねぷたのはやしは本来、「すすめ、とまれ、もどり」の三種類があったものが、町内毎にまちまちであることが、問題とされ、昭和44年より「はやし講習会」が開催されました。が、これが正調と言えるはやしがあったのでは、ありません。笛と太鼓のはやしに関しては、虫送りや獅子舞いとの関連がとりざたされるのですが、確証があるわけではありません。また、「ヤーレヤーレヤ」のかけ声に関しても、はっきりしたことは分かりません。ただ、イザベラ・バードが見たときには、太鼓がたくさんたたかれたことが分かります。昭和47年には、多くの関係者の努力で、当時の片裏町のはやしを基本にして、「正調黒石ねぷたばやし」が定められました。
このように、ねぷたに黒石らしさが求められた時代でもあったと思います。
(参考文献『津軽ねぷた論攷 黒石』1995年発刊 笹森建英著)
この時代昭和55年には、青森ねぶた、弘前ねぷた、秋田の竿灯が、文化庁より国の重要無形民俗文化財の指定を受けました。民俗文化財が脚光を浴びる時代であり、明治から百年を経て、江戸期からの祭りも指定されるようになったのだと思われます。
黒石では、昭和51年には、NHKのTV放映があり、ねぷた写真コンテストが始められました。そして、この写真を使ったポスターが作られたのは、昭和55年です。さらに昭和56年には、過去最高の参加台数81台を数えるほどになっていました。昭和57年には「十和田湖国境祭り」にも参加し始めました。
これまでも、青年会議所が主催であって現在のように運行責任者会議を開催してきましたが、主なる案件は、ねぷた本体の大きさ、運行コース、などについてでした。昭和49年に市内の一方通行規制がひかれ、この話し合いは、警察への要望として何回も行われ、現在の表彰コースとなったのは、昭和58年で、それまでは、保健所を回ってみち銀角へでるコースでした。
昭和54年には、「黒石ねぷたばやし保存会」が結成されました。昭和58年の審査要項は、審査員16名、審査部門「大人人形、同扇、子供ねぷた」で、基準は、「1.絵・照明1.造作1.はやし1.総合」の4部門となって、総合の部分が加わっています。これは、「コミュニテイのねぷた」を強調する青年会議所の考え方の現れでしょう。
また、この華やかな時代に忘れられないのは、昭和60年の「世界一のねぷた」製作でしょう。昨年は、五所川原の立ちねぶたが話題になりましたが、これ以上の賑わいと話題になったのでした。
高さ9M幅12M長さ4.8M。総重量2トン以上という壮大なものでした。「ねぷた制作者の会」(この年発足)によるこのねぷたは、釈迦の一代記からの「シッタ太子とダイバッタ戦うの図」で、原画は、山崎恒雄氏によるものでした。また、「黒石もつけ太鼓」も当時世界一の太鼓として製作されました。そして、7月31日の黒石御幸公園での運行には、人がごった返して大変な賑わいでした。9月7日には、世界一のねぷたは、御幸公園で惜しまれながら、解体され火流しされましたが、太鼓は現在も御幸公園の保管庫にあり、その勇姿を祭りのたびに現してくれます。
(参考文献『津軽ねぷた論攷 黒石』1995年発刊 笹森建英著)
この時代は、黒石ねぷた祭りにスポットライトが当たるようになった時代と言えるのではないでしょうか。
平成二年(1990)黒石ねぷた祭りは、黒石市民俗無形文化財に指定されました。この年ねぷた絵師山崎恒雄氏は、人形ねぷた製作百台を達成されました。また、現在のように審査表彰のコースが、二つに分かれたのもこの年です。
平成三年は、忘れられない台風19号が来襲した年ですが、黒石市より人形ねぷたに対する補助金が設定された年でもあります。また、ねぷた絵師岩谷幸雄氏が逝去なされたのもこの年でした。よされの会期変更に伴い、ねぷたとよされの会期が入り組んだ年でもあります。
平成四年は、賛否両論の中ねぷた祭りの会期が、津軽の先陣を切る黒石ねぷた祭りとして、七月三十日から八月五日までと変更になりました。
また、ねぷたの賞が多くなり、ねぷた製作後継者育成を目的とした「前ねぷた賞」、県内外マスコミより賛同され協賛戴いている「チャレンジ賞」、黒石ねぷたのあずましさを代表する「コミュニテイ推進賞」が、設定されました。審査の枠組みも手が加えられ、「ねぷた本体部門、はやし部門、いきおい部門」と三つを柱として審査されるようになりました。
この年はさらに、「大阪御堂筋パレード」に「もつけ太鼓」共々招聘遠征参加した年で、台風19号のお見舞いの御礼もかねて、大阪の京橋駅前で、りんご、米(津軽おとめ)、りんごジュースの無料配布などもなされました。昨年(1998)は、黒石市役所のねぷたがこのパレードに再び招聘されパレード2位の表彰まで受けています。
そしてこれまでの関係諸兄の努力が実って、青森県民俗無形文化財に指定されたのは、平成五年(1993)。この年、「青森県「知事賞」、「黒石市長賞」が設定され、久々に市内の賑わいを目指して、ポスターも製作されました。翌年には、「黒石青年会議所理事長賞」が、「扇中型の部」に設定されました。
平成七年は、黒石青年会議所四十周年記念の年で、『津軽ねぷた論攷 黒石』《分銅組若者日記 解 》を、当時弘前大学教育学部教授の笹森建英教授に著わしていただいたのでした。
昨年は、「ねぷた絵募集、ポスター製作」が連動され、さらに「かけ声コンテスト」等も企画されました。
(参考文献『津軽ねぷた論攷 黒石』1995年発刊 笹森建英著)
祭りの日が「ハレ」の空間で、普段の日が「ケ」の空間といわれてもピンとこないのが、今の私達です。日常の生活自体が、いつも「ハレ」の空間に近くなったからです。
それでもこの祭りが、綿々と続いてきたのは、祭る対象が権威的でない庶民の俗な祭りで、自由度が高かったからだと思います。
江戸時代から町方(庶民)が豊かになって、祭りが豪華になっていき、明治の近代化があり農村も豊かになっていきました。それでも、ねぷた祭りが持つ庶民の精神世界の底流は、あまり変わってこなかったのです。なぬか日に「ねぷたこ流れろ。豆の葉さとまれ。ヤレヤレヤレヤ」と歌った素朴な気持ちは戦前までは、とても大切にされて来たのです。
この底流がら明らかに変わってきたのは、太平洋戦争後です。人はみな平等の民主主義が持ちこまれ、工業化と経済化が急速に拡大し、暦もそうですが戦前のものは、古いものして否定されました。このことの是非は問いません。精神文化も含めて歴史は非可逆だと思うからです。
ただ、この祭りは、俗なものから逆に人間の根源的普遍的なものを表現する美しい祭りに変化していったのではと思います。それが、何の予備知識もなくよそから来た人も、何の歴史背景も知らずねぷた祭りとねぷた本体を見て、人が、感動する理由だと思います。その普遍的なものとは、火と水への信仰で、その表現がねぷた本体だとも思います。火と水に関する信仰は、世界各地に見られ、原初的なもので根源的なものです。言い換えると、陰と陽の関係で、両者があって世界が成り立つという感覚です。
例えば、扇の鏡と見送り、人形と見送りというのは、動と静の関係で、相対する両者の陰陽の純粋で深い表現だと思います。そしてこのように高い芸術文化を育んだこの地に育った私たちは幸福です。
また、この地で(社)黒石青年会議所が、主催者として40年以上も果たしてきた重みはとても重要で、これからもその主催者としての立場と青年会議所運動を連動し活動されることを期待しております。
そして、精神や生活文化の変遷とねぷた祭りの歴史を振り返った今、近い将来、黒石ねぷた祭りが国の重要民俗文化財の指定が受けられることを夢見ながら、今年も黒石ねぷた祭りが良き祭りででありますようにと念じてペンを置かせていただきます。
末筆になりましたが、参考とした著者の方々に深く深く感謝申し上げます。