扇 見送り 机 高欄 額 担ぐ棒 捧げ持つ棒
高さ 幅 面積 年代順の大きさ
捧げ持つ棒、載せる台を除外して、ねぷた灯籠の形態をみると、現在では扇と人形の二種類になっています。人形ねぷたを「組ねぷた」とも呼び、中心になる大きなねぷたの前を歩く小さな灯籠を「前ねぷた」と呼んでいます。現在の黒石ねぷた灯籠の特色は人形にあるのでそれを弘前のものと比較してみます。
人形=黒石では上から、@本体である人形、その後ろにある見送り、見送りの左右の袖、A高欄、B開き、C額、D開き、E額、F台、G車。
人形=弘前では上から、@本体である人形、その後ろにある見送り、見送りの左右の袖、A高欄、B板隠し、C開き、D額、E台、F車。
右の部分要素を比較すると、黒石ののはB開き、C額の二つが多くなっています。ただし、弘前ではB板隠しがあるので、黒石より一段少ないことになります。
扇灯籠の構造は黒石、弘前と同じで、以下のようになっています。〔図7〕
扇=上から、@扇。扇の背面には見送りと、正面と対照的な絵を描く区切られた袖、A開き、B額、C台、D車。
扇には高欄を付けないのが現在の形ですが、扇であるのに高欄を付けたこともありました。開きには牡丹の花、台には武者絵を描きます。見送りは女性の姿、袖には龍虎を描くのが多く見られます。昭和26年(一九五一)、弘前で「高さ一八尺、電線に支障のあるものは折り畳み式」と通達が出されています。
近年は仕掛けに工夫をこらしていますが、昭和57年(一九八二)に弘前で見送り絵が入れ替わる「紙芝居式」が人目を引きました。この年より以前に平賀町で考案されたようです。(トウ。昭和五七年。8.6)
昭和四三年(一九六八)に黒石青年会議所(長谷川伝一郎理事長)では、「ネプタ運行要項」を決めました。すなわち「高欄と見送りを特徴とした黒石ネプタの伝統を守り、子どもネプタに量を確保する。子供ネプタ制作者の講習会を開く。出席者には助成金を出す。審査については、三年連続した組を(同一作者の場合)無審査とする。ネプタ本体に広告を書き入れたものは賞から除外する。大人と子供ネプタの判定は高さで決める。」(レキ昭和四三年。7.5)
昭和五〇年(一九七五)の黒石ねぷた懇談会の実施要項に「必ず高欄を乗せるように」とあります。平成四年から奨励金を出して、黒石では「五層高欄」の人形ねぷた作りを促進しています。また、ねぷたの大きさも基準を定めています。
このように、現在は人形と扇の二種類に形を分類できますが、昔の形を考えるときは、人形・造形と箱形(角。その変形)としたようがよさそうです。人形ねぷたと云っても人物・動物とは限らないので、「組ねぷた」、「造形ねぷた」と呼んだ方が適切なのかもしれません。
箱形では、奥行が薄く、平面に近い衝立形や屏風形が明治期以前の黒石にありました。額とよばれた灯籠も、奥行が狭い立方体が主であったでしょう。中には球形もあります。
「箱ねぷた」と呼ぶ現在の例ですが、『歴史と観光』昭和五三年の「平内のねぷたA」に子供ねぷたの構造が次のように説明されています。これは昔のかつぎねぷたの構造を示してます。「四角な大枠に、武者絵や、雲漢、七夕、豊年満作などと墨書した紙を貼って、持ち歩くには一端の縦棒を下に長くした所を持つのである。箱ねぷた、旗ねぷたなどといった。」とあります。(レキ昭和五三年一月一〇日 第3面)。 右の説明で「箱ねぷた」は分かりますが、「旗ねぷた」とはどんな形をさしていたのでしょうか。
古い例ですが、寛政五年(一七九三)に、「額等出候」と『封内事実秘苑』に書かれています。〔73頁参照〕前述しましたが、菅江真澄は「けたなる・・」と方形であることを書き留めています。また、平尾魯仙は函館のねぷたの形について「其形は吾邦の額ネブタといふもの」として、「額ネブタ」の語を用いています。方形の灯籠を意味しているのでしょう。書画を書いて掲げる額を、立体的に作り、中に蝋燭を灯したと想像できます。黒石の「衝立・屏風形」はこれの発展と考えられないでしょうか。
人形の下にある四角な箱形の部分だけを「額」と呼んだ可能性もあります。「三寳に蝦を拵へ額共高さ三間巾2間」、蝦の造形と額を併せて高さが三間あると内藤官八郎が記しているからです。(月令)
題材については、おおむね藩政期の伝統が守られてきています。ただし、中国の三国志から題材をとった武者絵は明治期以降の流行です。第二次世界大戦の後には軍国主義的な題材ははばかれました。昭和二六年(一九五一)の新聞に「ネプタは占領目的及び公安風俗上支障のないもの。」(ムツ7.29)の記事が見られます。
(一)担ぎ@一人持ち。
i 心棒が真っすぐ、 ii 心棒に支えの横棒が付く
A一人が担ぎ二・三人が綱で支える。これは北海道に絵が残っています。(27頁)
(二)担ぎB二三人で担ぐ C大勢で担ぐ
(三)車@リヤカー、荷馬車の車、耕運機などを利用 A ねぷた用に作られた車に載せる。
現在はこのAの構造になっており、四輪の後ろの二輪が固定され、前の二輪が自在車(キャスター・タイヤ)です。運行は人力です。
菅江真澄によると『牧の朝露』には「手ごとに捧げ持ち」と記しているので、彼は一人持ちの灯籠を見ています。変化の過程は次のようだったと仮定できないでしょうか。一人で捧げ持ち、または担ぐ形態、神輿のように数人で担ぐ形態、一人が担いで支えの綱を三・四人が持つことから、車への道筋。勿論一人持ちや数人で担ぐ形態を残しながらの変遷ですが。
大正二年(一九一三)の『烏城志』に「大なるものは数人にて之れを担ぎ、若しくは車台の上に載せて曳きまわる」とあります。(安西一九一三。二二五頁)
荷馬車に付けたり(大正7・8年)、鉄の輪がついている大八車、ゴムタイヤの荷車やリヤカーに乗せ曳いたこともありました。荷馬車の場合は馬を付ける棒を外して使いましたが、車自体が随分と高かったそうです。
またリヤカーも使いましたが、リヤカーもめったに入手できず、使えばたいしたもんだったと山口十郎氏(大正二年生まれ)が回顧しています。昭和二七年(一九五二)の新聞記事に、黒石では「リヤカーに乗せたものが多いのが特徴」(ミナミ)があります。昭和三六年(一九六一)にはハンドトラクターに乗せたものも出ました。
長い間ローソクでしたが、手足以外の所を大きくしてその中に人が入って手の届く限りの所にローソクを補給しました。人形の手足は極端に小さくしたので、アンバランスな形が多かったのです。それだけにデフォルムの面白さがあったといいます。ネブタのいたるところに穴を開けてそこからローソクを補給したが、風で消えたり、落ちてネブタを燃やしたりすることも珍しくなかったそうです。(意訳 東奥日報 昭和26年7月30日 夕刊)。
弘前では大正一一年(一九二二)に電灯を入れたねぷたをつくりました。「津軽義孝伯に電灯照明の特性ねぶたをご覧にいれる。」(弘前市一九八一。二四九頁)とあります。
北川金三郎(昭和二六年七二歳 青森市)は一八歳からネブタを作って五〇年間で三百三十個のネブタを作った人です。彼は「中に蓄電池を置いて電球を使用するようになったのは終戦後のことで、その前、戦時中とその直前は主としてガス燈を用いた。それは魚河岸で漁船が使うものを利用した。」と述べています。黒石でも昭和20年代にカーバイトを用いたことがありました。匂いが悪く、危険でしたので、高欄の下の額にだけ使ったものでした。
昭和一〇年(一九三五)にバッテリーが使い始められました。現在は発電機を使っています。バッテリだと不経済だからです。ねぷたの期間中は東北中の発電機が津軽地方に集まるとまでいわれます。昔の発電機は音が大きく、太鼓奏者はそれに負けないように力一杯叩かなければなりませんでした。
街全体が明るいので、街灯を消さなければ蝋燭のねぷたを復元しても見栄えがしませんでした。それでもそれなりに情緒があります。時々に復元ねぷたが運行されています。昭和二九年(一九五四)の弘前、「バッテリーを使わずローソクを点じているものが多く見られ、習慣が生き返ったような感じがした。」(ムツ8.14)火影が揺れるねぷたを見ると、何故か懐かしく、傷ましい気持ちにさせられます。
竹(近年は針金)、木材、紙、人形・飾り物の題材、表・鏡絵と裏・見送り絵の画題、袖絵の画題、開きのデザイン、額の書画。蝋、シラシメ油(白絞油)、絵の具・顔料、これらについては川守田さんの『ねぷた絵師』の説明を参照して下さい。
大きなねぷたの前を歩く小さなねぷたを「前ねぷた」と呼び、多くは台車に乗せず担ぐか、小さなキャスターを付けて引いて運行しています。各地にこの形が増える傾向にあります。
黒石では二・三年前から特に多く見られるようになっています。
函館の場合ですが、山車の車に灯籠を乗せたこともあった。平尾魯仙は次のように記す「種々の形があるが、中には山車の台に載せ、囃子方がその上に乗って囃すものもある。額上に葉竹をさして、短冊を下げる」。『函館風俗書附函館月次風俗畫補拾』も山車の屋台のような車に乗せるものもあるとして「大額灯籠は方弐間余りに囃子屋台やうの者を四ツ車のうへに組み立て、幕を四方に張廻して、此中、笛・太鼓・三味線等囃子方、其他の人数弐、三十名計りを乗せ、其上には竹を骨とし紙を皮とし種々の物像を制作し、像によりて種々彩色を施し、夜るは数百丁の蝋燭を点ずるが故に、光彩燦爛。(中略)中額灯籠は数十人これを肩にして持行くなり。(中略)此他数百千の小灯籠或は五十或は百と、組を異にし、隊を分ち、童男童女綺羅を飾り華を粧ひ、太鼓に笛に豊年万歳を唱えて市中を押廻る(大額灯籠は一家一手にて制作するもあり、又は数家組合ふて制作するもあるなり。)」と記しています。(『函館風俗書附函館月次風俗畫補拾』)
この様に山車の車との相互の影響があったのは、函館のみの現象ではなかったでしょう。
北海道江差町、姥神神社の山車は有名です。神社の境内には各町内のミニアチュアの山車が飾っています。このミニアチュアは個人で持っている人もありますし、町で祭の日に陳列することもあります。この小型の山車を子供たちが七夕に引っ張って「ロウソク出せ出せ 出さねばカッチャクど おまけにクッツクど」と昔は歌いました。青森県で現在も、この同じ歌を七夕に歌うのは大畑町です。(後述)
前出の『月令』には佞武多に「車付綱引あり或は屋台舁あり」と、すでに車が付いた台車を綱で引いた形態が珍しくなかったのが知れます。
両者にある類似点の指摘にとどまらず、山車が元であり、ねぷたに影響を与えたと云う仮説を証明するためには、山車の構造の変化を克明に記録し、ねぷた灯籠の構造と比較検討しなくてはなりません。山車の形態は時代・地域によって随分大きな変化を示します。年代の前後関係、ねぷたを作った人の山車への知識、模倣意識の有無などが検討の対象になるでしょう。仮説を設けるのにどれだけ多くの資料を用い、比較検討をどれだけ論理的に積み重ねたかがその真偽の基準になります。残念ながら仮説を唱える人はいても、実証的に証明してくれる人はまだいません。
東津軽郡平館では四日からクサねぷたを運行し、七日に海に流しました。柳の枝に灯籠を下げたものをクサねぷたと称しました。報告書には次のように書いています。年寄りが山に行き、適当な柳をみつけると、根元に塩を撒き、一礼してから切り取る。灯籠は割箸などで三角に作り、その三角灯籠を一五個くらい一本の柳につるす。ハナジロをつけ鉢巻きをし、笛・太鼓で囃して歩くが、多いときには二〇本も村を練り歩いたことがあるとのことです(青森県郷土館 一九七八 一一八頁)。
第一項 構造
『分銅組若者日記』のねぷたに関するスケッチの欠点は立体が明確でないことです。奥行きが描かれていないので、平面の絵であるのか、立体的な造形であるのか判断できないものがあります。また、下の部分が省略されて描かれているため、大勢で担ぐ構造なのか、一人で捧げ持ったのか、運行せずに飾って置くだけのものであったのか明確でないものもあります。しかしながらこれらを形態上からいくつかの型に分類することができます。
灯籠の構造を上から番号を付けてその部分をとりだしてみます。六つの部分からなっています。勿論、その各部分には変形がいくつかあってのことです。
まず、@は人形など主となる造形です。Aは人形等を乗せる机、Bは欄干、Cは現在でいうところのガク、二段を重ねてあるのもあります。Dは灯籠の脚であり、担ぐために、または運行しない時に立てて置くために用いたでしょう。Eは棒で、一人持ちに付いています。〔図9〕これをまとめると次の様になります。
@―1 人形、もしくは他の造形
@―2 箱・衝立・屏風・
@―3 造形と箱・衝立を組み合わせたもの(見送りの原型)
A―1 机または造形をのせる台
A―2 造形を載せる三宝(サンボウ)
B 造形を囲む欄干(高欄の原型)
C ガク(現在用いられる名称として)、二段重ねもあります
D―1 脚棒
D―2 垂直ばかりでなく、水平にも突出している棒
D―3 本体を置く台、描写を省略した脚〔図9〕
E―1 捧げ持つ一本棒〔図9〕
E―2 垂直の棒に、短い横棒がついて肩に担ぎやすいようにしたもの。〔図9〕
これらが、種々組み合わされて作られています。大きく分類すると担ぐ形態と一人持ちの二形態になります。担ぎは一一種、一人持ちは九種にまとめてみました。これらを[図10−22]で示しました。一人持ち2型が一番多く三〇点あり、次いで担ぎ7·8型の一五点です。
@―1人形、造形=
これについては、どんな題材で作られていたか、「題材」の項でのべます。
@―2 箱・衝立・屏風=
この形は四角の立方体です。奥行も深いサイコロ形または立方柱、奥行が薄く横長、奥行が薄く縦長などがあります。『分銅組若者日記』の絵では、奥行が描かれていない物が多いのですが、中に蝋燭を入れる条件が絶対であれば、描かれていなくとも立方体であったはずです。前述の菅江真澄による『牧の朝露』には「けたなる火ともし」すなわち「けた」=四角である、「火ともし」=火をともすもの=灯籠と記述しています。この形に何が描かれていたか、形が何を意図していたか、これも後の「題材」の項で述べます。一枚の衝立、二枚折りの屏風などがあります。
@―3 造形と衝立を組み合わせたもの、衝立の方が人物などの造形より高いのが一般的です。
扇 =
嘉永 五年(一八五二)に黒石、山形町組では扇を額の上にのせた灯籠を出しています。【46】高さは四間位で、一人持ち用の棒が付いています。畫は三次元の立体が分かるようには描かれていないので、扇の奥行きは不明であり、平面であった可能性は否めません。黒石に残された百点の畫で扇を型どったのはこれだけです。
@―3 見送り=
「みおクリ(見送り)」と『分銅組若者日記』に書かれているのはただこの一点だけです【34】。
これと類似の絵は描写されていません。後の、例えば慶応四年(一八六六)の衝立と人形の組み合わせで、衝立の部分が「見送り」のアイディアへとつながって行った可能性があるのかもしれません。前にも指摘しましたが、本体となる造形の後ろに絵が描かれる形でなく、別に衝立上のものが立てられています。山車では昼に垂れ下げる「見送り幕」や「見送り額」は、夜には別な額に取り替えられ、蝋燭を灯して山車の後方に飾られる構造になっているので、ねぷたと同じ発想になります。
A机=
猫足になっている机は天保一二年(一八四一)からすでにあり、特に嘉永七年(一八五四)以降に多く、一種の流行にでもなっていたようです。平尾魯仙の絵にも伺えるので、好みの伝統が弘前にも分布していたのがわかります。
B高欄=
欄干であると明白に分かるのが【76】の「天岩戸」であり【12】【40】にそれらしいものが描かれています。これらは山車の欄干と類似しています。後年に人形ねぷたにつく高欄の初歩的な段階として参考になります。
C額=
担ぎでは造形より大きく、一人持ちでは小さくなっているのが特徴的です。
二段重ねはみられますが、現在の「開き」に該当する形はみられません。現在ガクと呼んでいるのは人形や、扇の下の部分を指していますが、昔は弘前でも、灯籠全体を「額」と呼んでいたので注意する必要があります。
D担ぐ棒。置き台か棒の略図
E捧げ持つ棒。二種類
『分銅組若者日記』に描かれた灯籠を部分に分けて、類型を抽出し、各々の型に該当する灯籠を番号で印しました。型の種類や一番多く作られた形などが分かります。また、時代ごとの好みや、変遷も分かるでしょう。
『分銅組若者日記』には百に及ぶ絵が描かれています。しかし、全ての素描にサイズが付記されているのではありません。高さ幅はあっても、奥行が書かれていません。運行上問題になるのは高さと幅の広さだけだったためでしょう。まず、高さ、幅、面積を調べ、記されているものだけを年代順に整理してみます。
○高さ
一番高いのが天保一二年(一八四一)、山形町組のもので、高さ九間、横三間ある〈巴付の角灯籠ふたつ重ね太鼓〉です。高いものの順に上げますと、九間一台八間一台、六間四台、五間半一台、五間五台、四間八台、三間二台、二間半一台となります。一番多いのが四間であり、四・五・六間に集中しています。
○幅
幅で一番広いのは九間で一台あります。幅は一尺(一〇間)が一番広く、五だいもあります。順に広いものを挙げれば、九間一台、七間一台、三間四台、二間三台、一丈(一〇尺)五台となっています。
○面積
高さと幅の長さを掛け合わせて一番大きいのが、文久 三年(一八六一)中町組、高さ六間半、幅一丈の〈掛け軸に三方にのった御供え餅〉と山形町組、高さ六間、幅一丈の〈人物を描いた衝立〉です。大きい順にあげると、六〇間二台、五〇間一台、四五間二台、四〇間二台、二八間一台、二七間一台、二四間一台、一二間三台、八間二台となります。
ちなみに、文政のころの佞武多を内藤官八郎が『月令雑報』で記述しているのでは、高さ三間、巾二間となっていますので、黒石の方が大きいのがわかります。以下、年代順に大きさを示します。
○年代順の大きさ
天保一二年(一八四一)
山形町組、高さ九間、横三間。巴付の角灯籠ふたつ重ね、上に同巴付の鼓面
鍛冶町組、高さ八間、横三間。軽業師、手を広げ扇を持ったもの。
中町組、高さ四間、横三間。一富士二鷹三茄子ののもの。
上町組、高さ四間、横三間。机の上に筆立て及び本硯等を置いたもの。
天保天保一三年(一八四二)
中町組、三尺。百人一首灯籠重ね。
鍜冶町組、高さ六間、横二間。牛乗りの牧童のもの、
弘化 元年(一八四四)
此の年は文字による記述のみで、絵は描かれていません。町方でも多く出しましたが(後述)、「一人持ち」と書いていますのでサイズは小さかったでしょう。
山形組、高サ三尺 台ハ前年のもの。天狗 牛若
鍜冶町組、高サ四間、幅二間余。矢之五郎
中町組、高サ二間半。鮹弁慶
弘化 三年(一八四六)
一人持ち以上の大ネブタの運行は禁じられ、何れも小ネブタばかり僅かに出した。
弘化 四年(一八四七)
運行された四個の絵がある(3―270)。サイズは記載されていない。
嘉永 二年(一八四九)
運行された六個の絵がある(2―125)。サイズは記載されていない。
嘉永 三年(一八五〇)
運行された五個の絵があるものの、サイズ書かれていない。(2―145)。
嘉永 五年(一八五二)
運行された一七個の絵があるものの(3―187)、サイズが書かれているのは山形町の扇だけです。
山形町組、高さ四間位、扇の幅二間位
嘉永七年(一八五四)
例年の灯籠は三尺余のものの製作を禁止され、一人持のものばかり出ました。
一〇個の絵が(3―237)にあるがサイズのあるのは左の二組である。
中町組、高さ五間位。
前町組、高さ三間位。唐子()
安政 二年(一八五五)
一四個の絵があるがサイズはない。
文久 三年(一八六一)
運行された五個の絵がある(@―67ff)。
中町組、高さ六間半、幅一丈。掛け軸に三方にのった御供え餅
山形町組、高サ六間、幅一丈。二名の人物を描いた衝立の画
上町組、高サ四間余、幅一丈。天の岩戸
元町組、高サ五間半位、幅□丈。植木鉢に植えられた松
井桁水組、高サ六間位。梵字が書かれている幟灯籠
慶応 元年(一八六五)
運行された4個の絵がある(A―24〜25)
山形町組、高サ□間位 幅□□。衝立に山婆の画
鍜冶町組、高サ五間、幅九尺。二枚折屏風六ケ
上町組、高サ四間位、幅七尺□□。神文小文我袖ニ
元町組、高サ五間位、幅九尺位。□ぢうかご
慶応 二年(一八六六)
運行された七個の絵がある(A―42)。
小形物ばかりで、ただ山形町組ばかりは大きいものを出した。
山形町組、高さ四間位、幅一丈
慶応 四年(一八六八)(9月より明治)
運行された一一個の絵がある(Bー9ff)。山形町、鍜冶町、中町のが大きく描かれ、他八個はは小さい。
山形町組、高さ五間、幅壱丈。獅子踊
鍜冶町組、高サ五間位。玉藻前
中町組、高サ四間位。弁慶安宅関
弘前では、ねぷたの記録は種々あっても、人形や他の造形を記述したものはほとんどありません。かろうじて、内藤官八郎の『月令雑報』にあるくらいのものです。これは前にも引用しましたが、「三寳に蝦を乗せたもの、蝦の髭が唐竹二本、その長さが三間、藩士・町方からは二人持ちの小さな佞武多で、骨組みには釘鉄を使い、奉書紙を張り、それに絵を描いたもの、子どもは馬灯籠とか扇灯籠、四尺くらいの金魚などがある。弘化の頃になると、巾が一丈、高さが五間もあり、縁は厚紙で、いろいろに模様を彫り抜いて、欄干など付ける。題材としては、関羽、朝比奈黄石公張良 攀噌門破など」これを読みますと、三寳に物を乗せるとか、攀噌門破など、黒石の題材と発想は似ています。
台の上に乗せる人形や飾り物を総括してヤマ(山)と『分銅組若者日記』では称しています。山車のヤマ、獅子踊りで使うヤマ等に共通する概念であり、ねぷたに対する意識の一端が窺えるような気がします。そのヤマである作り物や、灯籠に描かれた画題をやはり『分銅組若者日記』から年代順に拾ってみます。
天保一二年(一八四一)
山形町組、巴付の角灯籠ふたつ重ね其の上に同巴付の鼓面を置く。
鍛冶町組、五つ重ねのたらひの上に瓶を乗せた軽業師、両足にてかかげ手を広
げ扇を持ったもの。
中町組、一富士二鷹三茄子
上町組、机の上に筆立て及び本硯等を置いたもの。
天保一三年(一八四二)
山形町組、大黒天。
中町組、百人一首三尺灯籠重ね。
鍜冶町組、牛乗りの牧童。
上町組、獅子権言、
元町組、攀噌門破り、御幤を持った舎人。
弘化 元年(一八四四)
元町組、天川屋儀兵衛
山形町組、天狗 牛若
鍜冶町組、矢之五郎
中町組、鮹弁慶 拵 七ツ道具
下町組、 灯ちん十張
町方の久一、浦嶋太郎一人持、
中忠、大黒一人持、
久丸、鯨塩吹一人持、
越源、□天一人持、
感随寺、三本□一人持
弘化 四年(一八四七)
上町組、俵かとおぼしきものが五段にピラミッド状に積み上げられ、上に飾り
がついている。
大工町、本体は細長く字が書かれ、左右に飾りが下がっている。幣カ
下町、 九尾の狐の絵が書かれた球形の灯籠
山方町、だるまカ
嘉永 二年(一八四九)
下町組、碁盤衝立
上町組、寶船
山形町組、海獣
鍜冶町組、御幤
中町組、天狗面
横町組、九尾の狐
嘉永 三年(一八五〇)
山形町組、門か館と覚しき建物の上に座す人物
鍜冶町組、城を背に置いた人物
中町組、瓶と珊瑚
上町組、城矢倉
下町組、二輪の乗り物
嘉永 五年(一八五二)
小田桐様、武王(小田切は御家中)
三浦様、神功皇后(ミオクリあり)
唐牛様、長良
吉村様、畠山景忠、
境町、源三位頼政、
柳屋七兵衛、鍾馗、
木長、皆鶴姫、(木村屋長兵衛)
加藤、牛若丸(大工町)
柳竹、トの貞乙女(柳屋竹次郎)
元町鍵屋、浦嶋太郎
感随寺、幅物
来迎寺、御供餅
十一屋、鯉の瀧登り、
山形町組、扇灯籠、
中町組、武将、
元町組、手習鑑 寺子屋之段
厩小役人連、桃内小太郎(桃太郎)
嘉永七年(一八五四)
山形町、幤(子ども組による)、
鍜冶町、町印灯籠(小若者中による)
中町組、金魚(小若者中、若者提灯持)
前町久一、唐子
元町鍵屋、城矢倉
上町石郷屋、二匹金魚
吉村様、壽老人
市ノ町加藤、ミノ亀
前町富永、唐子
保福寺、巻物
安政 二年(一八五五)
上町組、満月の兎。小槌など宝尽くし、
澤忠、屋台に三人物。
町名不明、屋台に二人物(原本破損)。
□木、瓶。
□屋、鳥篭。
□□、金魚
三郎、武将
不明、不明(原本破損)
□□吉村、人物。
□屋、魚と人物。
□長、龍宮
吉村様、欄干の上の牛若丸
榊□、不明
文久 三年(一八六一)
丸中組、掛け軸にお供餅
山形町、衝立に唐人二人
上町組、天の岩戸灯籠であり、欄干が付いているのが特徴的である
元町組、植木鉢に植えられた松の灯籠である。
鍜冶町組、梵字が書かれている幟灯籠である。
慶応元年(一八六五)
山形町組、山婆 衝立
鍜冶町組、二枚折屏風
上町組、神文小文我袖ニ
元町組、
□□ぢうかご」
慶応 二年(一八六六)
運行された七個の絵がありますが(Aー42)、田は町名も題名もなく絵だけが描かれていますのでそれらを列記します。。
山形町組、衝立
人物
鎧の武将
三方に乗せた巻物
龍宮
城矢倉
桃太郎
慶応 四年(一八六八)(9月より明治)
山形町、鍜冶町、中町以外は一人持ちの灯籠です。鍜冶町組で出した「玉藻前タマモノマエ」は金毛九尾の狐の化身。亀羽天皇を悩ましたが、阿部泰親の法力で那須野に飛去り殺生石となったといわれます。九尾の狐は題として度々用いられています。
山形町組、衝立に獅子踊りの画、衝立の前に獅子踊りの人形。
鍜冶町組、玉藻前
中町組、弁慶安宅関所
土屋、お供え餅
(その他)金太郎 鉢植え松 城矢倉 恵比寿(漁師カ) 鎧を着す武将 三方に載せた小槌
佐藤由太郎、亀に乗り玉手箱を持つ浦嶋太郎
第四項 『分銅組若者日記』の画
『分銅組若者日記』にある百点の画すべてを次に示します。
1から73までは原寸の大きさです。74からは原寸の二分の一に縮小してあります。
画の前後、上下にある説明はスペースの都合で削除したものもあります。原本ではどの様に記されているかは、本書の7頁、79頁に一部を示しておきましたので、参照して下さい。