第三章 組織・人員

第一節 消防組  P58

第二節 子供・子供集団  P59

第三節 戦後の組織 P61

第四節 運行時の要員  P61

 

 

 

 

第三章 組織・人員

 

 黒石のねぷたは、他の津軽地区のねぷたに比べて、地区住民の結びつきが緊密な小社会集団の単位で運営されているのが大きな特色になっています。

 地縁的であるのは弘前もそうですが弘前以上に小さな地域の単位で自主的に執り行われています。青森市の社縁的なねぷたと比較すると、特色がより明確です。

 池宮良正は、『ネプタ祭り 調査報告書』の中でねぷたを二分類しています。それは田舎ねぷたと町方ネプタであるとも云います。農村を基盤とした「ネブタ流し」、また地区単位の子ども行事に対する、城下町を中心に発達してきた風流的祭礼「ネブタ祭り」です。黒石には、そうした二分類は、現象としてみられず当てはめられません。大型で、運行通路が定められ、為政者である藩主が観覧し、経済援助もする、そのことが即ち官製町方であると規定してよいのか疑問が残ります。大型華やかな装飾は藩主の希望によってのみ作り出されるのか、運行通路のすべてが藩の規制によるのか、合同運行が組織されれば「町」なのか、等などの疑問が生じ、黒石ではそのまま通用しない二分法です。池宮も「『町』と『在』の対立を超えた広がりをもつ行事として『ネプタ文化圏』が成立している。」として、現代ネブタの分析をする上での理念型であると断っています。しかし「黒石の『ねぷた祭り』は明らかに風流化された祭礼の性格を帯び、その系譜上に位置づけられるものである」と断言していますが、それでよいのか、疑問を感じます。(池宮一九八六。5〜7頁)ねぷたを「流す習慣があり、農村も含む地区単位の子どもの行事でもある」、このことによって前記の分類にはそぐわないのです。これは歴史的な背景を見ることによって容易に理解されるでしょう。

 

第一節 消防組

 

 黒石では、ねぷたの運行は消防組が中心になっていました。『分銅組若者日記』がねぷたについて記録したのは、ねぷたが火を扱うから、すなわち消防の仕事の一つ「火の管理」が理由であったばかりではなさそうです。

  消防組という組織のなかで、地域の文化生活が営まれていたように読み取れます。消防組は庶民の組織であり、藩が組織した機関ではありませんでした。

その組の成立過程を安西如鳩の『烏城志』によって見ましょう。

 

 文化二年(一八〇五)の頃に宮地甚左衛門と云う人が山形町に住んでいました。

幼いときから義侠心に富んでいました。江戸に出て、神田十八番組の消防に入り纏持にまでなって帰郷しました。帰ってからは、「一六蕎麦」の名前で蕎麦屋を営業しながら、消防組を組織し「いろは組」と名付けました。弘前ではこの後に鍜冶町、和徳、元町の組が出来たそうですので、津軽に消防が出来た一番始めがこの「いろは組」だったわけです。甚左衛門は文政一一年に亡くなりましたが、未亡人の「梅干し婆」が跡をまもりました。火事になると梅干し樽を抱えて駆け付け、消防手の口に梅干しを入れてやるので、その名「梅干し婆」が付けられたのだそうです。甚左衛門が亡くなってから四年後の天保二(一八三一)に従来の組織を改めて五組としました。それが、マル山組、マル中組、カク元組、井桁菱水組、分銅組です。「芥子桝」をデザインした纏は代々宮地家に伝えられ、「いろは組」の伝統はマル山組に伝えられていました。長ボロ、唐獅子、赤鬼、黒雲と名付けられた纏持がいた頃には黒石消防組の勇名は津軽五郡に轟いていたといわれます。(安西一九一三、二六頁)

 この組の一つである上町の分銅組が書き留めた『若者日記』が黒石の庶民の文化を知るうえで貴重な資料となったわけです。

 ねぷたの製作から運行まで消防組は組織し、組どうしで連絡をとり、喧嘩があれば組で解決するなどしていました。ねぷた行事に町単位の消防集団が強く関与していたことが分かります。

 

安西は黒石の「いろは組」が津軽で一番始めの消防だとしていますが、宮地甚左衛門が組織したのは享和元年(一八〇一)であり、弘前では寛政七年(一七九五)町火消しがはじまり、後に江戸いろは組にならって和徳町に消防組を作ったといわれます。ちなみに江戸の「いろは47組」が編成されたのは享保五年(一七二〇)でした・(弘前市史編纂委員会 一九六三。一七六頁)

 当然、藩が私的な組織をそのままにしておくはずがありません。上記の安西の記述でも指摘されているように、天保二年(一八三一)に組織を改めて町五組としたときに、藩は費用を支給し、道具を常備させ、組頭を任命し、「御用火消」にしました。しかし、そのようになっても、単なる消防の任務を越え、社会生活に強く関わる伝統を引き継ぎました。

 分銅組若者日記を読みますと、盆踊り、岩木山への登拝行事、山車、芝居などのことが記されています。年中行事、日常生活、娯楽など、住民の生活に火消し組が深く関わっていた様子が窺えます。藩主から見せることを命じられれば、運行し、規則に従いましたが、ねぷたの企画、運行は自主的に組織が執り行っていたと思われます。すなわち、ねぷたの製作から運行まで消防組は組織し、組どうしで連絡をとり、喧嘩があれば組で解決するなどしていました。。このようにねぷた行事に町単位の消防集団が強く関与していたことがわかります。

 鳴海静蔵氏の説明によると、明治以降は消防は次の三組になりました。

第一部    山形町、鍛治町、後裏町、馬喰町、

第二部    上町、元町、内町、徳兵衛町、大板町、市の町、

第三部    仲町、横町、浜町、ぐみの木町、甲徳兵衛まち。

 

  明治以降、日本の社会構造は一変しました。しかしながら、黒石では地域を単位として、町ごとの、隣組的な社会生活が営まれる伝統的な形態を現在にも残しています。

 

 大正八年の新聞に「黒石、侫武多はここ一週間に迫ってきたが黒石の侫武多はまだ願い出がない。此の侫武多の取り締まりについては町の消防組の方で責任を負うとのことであるから余り干渉せぬ筈  」(ヒロ7.24)まだ大正初期には消防が関わる余力をもっていたのが分かります。

 

第二節 子供・子供集団

 

 担ぎ、曳く者は子供であった行事が、後に大人になった、と解釈する者もあります。その理由ですが、文化六年(一八〇九)に氷海散人が書いた『俚俗方言集』に次の文があるからだと、松木明は説明します。(松木 一九五一)

 「七夕の祭をねぷたと云う。色々の灯籠をこしらへ児供のたわむれとす、近年増長して皆大人のもて遊びものとなれり」

 

 文化六年以前の大型ねぷたを、夜に子供が運行したとは考えにくいので、この指摘はこのままでは受け入れられません。大人だけで行事をしたのではなく子供も参加していたでしょう。全員で一斉に合同運行する形態だけがあったのではなく、合同の形態もあり、個々で運行する形態もありました。個人の小さなねぷたは近所だけをまわったり、大きなねぷたに付いて歩いたりもしたでしょう。それは最近まで子供がねぷたを見せて歩く風習があったことからも推測できることです。

 ただし、他の年中行事の中に、子供が参加する形態、「成木責め」、山車の囃子、などあり、子どもに限定する山車の囃子方などがあることは忘れてはならないでしょう。喧嘩を禁じた弘前藩の最初のお達しは「子供ねぷた流しの喧嘩口論を禁ずる」(一七三九)と子供ねぷたでした。喧嘩するとは稚気なりと、大人にして子供也と祐筆が書いたのか、実際に子供であったのか。

子供だけのねぷたがあり、それなりの情緒や意義もありました。次に記すことがらは、現代になってからの習俗です。黒石ねぷた製作者の会の山口十郎や、山崎恒雄氏、川守田健造氏等を囲んで座談会をもちました。(一九九五年二月一七日)、そのときの各自の思い出ばなし。物置小屋の二階、マゲ(間木)をたまり場にして、近所の子供集団がそれとなくでき、ボス格の子供を中心にして、子供達がそれぞれに役割分担でねぷたを作り、門付けをし、得たものを後に分配しました。

 釘を拾い集める者、材料を調達する者、絵を書く者、時にはお金を出し合って作り、近所を「ねぷたコ見でケ、ろうそくコけでケ」と廻りました。集まった蝋燭は店屋に持って行きお金に換えました。盆に蝋燭を使うので需要があり、店屋も買ってくれました。五〇円出せば、一五〇円にもなって割がよかったそうです。

子供ねぷたでもうひとつ重要なのは「学許」の制度です。子供だけで運行してはいけない、大人がつくように。門付けをする子供は学校の許可を貰い、「学許」の札を付けることが決められました。

 黒石ではすでに「学許」がなくなりました。制度が不都合だから取り止めたのではなく、子供たちが門付けをしなくなったからです。近隣の町村ではまだこの制度が残っています。昭和四一年(一九六六)の『歴史と観光』に「黒石ねぷたの特色は『学許』の紙が貼られた学校で許可したネプタが多いことである。このネプタの数は全体の八割は占めるであろう。と記していますので昭和四〇年代にはまだあったようです。

 そもそも学校が児童の日常生活にまで関与するようになったのは、為政者にとって学校が国民の意識を統一し、共通の価値観を植え付けるのに最も効果的な場であり、学校を通じて児童の家庭生活を改善しようとしたからです。 

 大正五年(一九一六)の新聞に「黒石の侫武多取・・・。金品等強制を禁ずる事。子供の扇燈篭をもって戸ごとに蝋燭強制は学校において一般生徒に訓戒すること。侫武多を悪評し互いに喧嘩口論せざるものとす。(ヒロ 7.25並びに7.29

 大正八年の新聞記事にも「侫武多運行取締につき弘警署長は県立中学校長並に各小学校長に生徒児童へ侫武多中の注意方を請いしが、小学児童には蝋燭を強ゆる事・・投石等悪戯をせぬ点、中学生には喧嘩に仲間入りもしくは尻押し教唆をせぬ等の事・・」(ヒロ728)と中学校長や小学校長に生徒児童へねぷた期間中の注意方を要請しています。

 

さかのぼって、明治六年(一九七三)のねぷたの禁止令布告は「是全ク野蛮ノ余風賎シムヘキノ至」とお上が判断したからです。野蛮な風習には「金品物品を請求」も含まれていました。明治四三年(一九一〇)の黒石警察署の取締方針は「土台より八尺以下四人持ち以上の運行を許さず、金銭物品を請求す可らず、運行は十二時限りとする由(ヒロ87)。大正三年(一九一四)では「各戸に臨み蝋燭または金品の贈与を求め、時にこれを強要するがごときは確かに弊風とす。大正の御代における国民は、すべからく率先してこの弊風を改めざるべからず深く注意すること(ヒロ 8.22

 集められた金品の分け前で争いが起きたりもしました。大正六年(一九一七)「黒石、第一部内にて消防に関係のない十五才以上の小若者六十余名が出費しあい、組ねぷたを出しました。そうして集まった金品でしたのに、ねぷたの取締は消防にあるのだからと勝手に処分してしまい、小若者等には当がひ扶持を与えたばかりでした」と報道し「不埒なりとて目下尚ほ紛争中なりと、汚い哉。」と記事を結んでいます。(ヒロ830

 

第三節     戦後の組織

 

 終戦後は二・三の町内が単独で運行したくらいでした。それが年と共に増加し、青年会議所が賞を出すようになってから、合同運行という形態でねぷたが組織されていきます。運行許可は、警察と青年会議所の両方に出すようになっていきました。他の組織としては、山形町が昭和五六年に作った「有志会」があります。月毎の会費でねぷたの運営をしています。

 現在は本書の制作責任でもある黒石青年会議所が運行責任をとっています。その外に、ねぷた灯籠を制作する人たちの組織黒石ねぷた製作者の会、囃子の伝統をまもり後継者を育成している正調黒石ねぷたばやし保存会が活動しています。本書巻末にそれぞれが歴史的経緯を載せています。

 全体の運行に対して青年会議所が責任とリーダーシップをとっても、実際の制作・運行は町内の人々です。これは先に述べましたが、青森のネブタが企業などによる「社縁」団体が多いのに対して、弘前黒石が地縁的であるのは指摘を受けるまでもありません。黒石では、極端に観光化せず、企業などが資金を出して行事に発言権を増大させることも、つつしんできています。例えば、昭和三一年の新聞に「ネプタ審議会では、広告ネプタを審査の対象から除くと報道しています。(ミナミ8.9)観光や外部からの資金は地域性や本来の姿を変えがちです。町の一軒一軒が自主的に行事に参加します。『ネプタ祭り 調査報告』でも次のように指摘しています。「黒石では76%が町内を組織母体にして運行団体が成立しており、弘前でもその割合は五四%に達している」(田中 一九八六. 五九頁)

 

第四節 運行時の要員

 

 運行の順に従って要員を挙げてみましょう。かつては運行の先頭に消防士が纏を着て二名付いたこともありました。綱を引く子供や大人、ねぷた灯籠があり、その後ろに囃子方が続きます。囃子については第四章で述べます。

 灯籠の周りには「線上げ」と呼ばれる長い竿を持つ者と、昔は火消しの棒を持つ「火消し」がついていました。本書P145写真下を見ると先に布きれの付いた長い竿をもっている人物がいますがそれが「火消し」で、蝋燭が倒れてねぷたに火がつくとその竿の先に水を含ませて叩き消す役割をしました。

 大きな灯籠の中には蝋燭を灯し、灯火の管理をする者がおり、熱気や垂れ下がる鑞で苦しい作業をしなければなりませんでした。灯籠の狭い所では外から穴を開けて蝋燭を灯しました。蝋燭には灯る時間が限られていますので、必要な人員でした。小さな灯籠では、梯子を持って歩き、火が消えると梯子を掛けて上から取り替えることもしました。現在は発電機になったのでその要員はおりませんが、灯籠の中で高い扇灯籠であれば、電線の下で折り曲げる者、電線を押し上げる者などが入っています。なお昔は台車には必ず水を入れた桶をおきました。

 現在は見られなくなったのですが、黒石でも勝手に踊りまくる踊り人や、「バケト」仮装して化けた人もついたことがありました。