第五章 歴史

 

第一節 流し松明・大灯籠 P72

第二節 殿様の観覧・喧嘩 P73

第三節  弘前ねぷたの飾り・大きさ・乞巧奠 P73

第四節 菅江真澄の記録・『津軽俗説選』の記述 P74

第五節 黒石のねぷたの歴史 P75

第一項 藩政期 P75

黒石藩の奨励と干渉  天保七年以降の歴史

函館のねぷた     安政以後の歴史

 

 

第五章 歴史

 

毎年繰り返される七月七日の行事は貴族や士族階級の年中行事のみではなく、庶民の間でも古くからあったに違いありません。士族階級や知識人たちが文章で出来事を記録を留める以前から、津軽にも行事があったと考えられます。記録にないからといって行われていなかったと見ることはできません。また、記録は記録するの者の利害に絡んで内容がきめられるので、記録を文字通りに信じる方にむしろ問題があるでしょう。しかし、記録として残された内容によって、古い形を推測してみるのもそれなりの意義があることです。どんな目的で記録したのかその背景も考慮に入れて文章を読むと、書いた人のねぷた行事への意識がわかります。ねぷたの古い記録は弘前にあるので、まず弘前の歴史を概観し、次いで黒石を中心にして変遷を辿ることにしましょう。

  弘前その他の地方に関しては事項ごとにまとめ、黒石に関しては年代ごとに記述します。

 

 

第一節 流し松明(たいまつ)・大灯籠

 

流し松明

 元亀元年(一五七〇)「七月七日石川大淵ケ崎にて流し松明見物仕候」これは『永禄日記』にある記録です。(山崎一七七八。五頁)七夕の日に殿様が見物したのは「流し松明」でした。黒石の大川原地区で毎年行われる火流しが連想されます。松明の火が水ですぐ消えないように、どの様に君で流したのか、興味があります。殿様がわざわざ「見物つかまつるの」は何故でしょう。七月七日に定期的に催される年中行事だったのでしょか。現在、大川原では八月一六日に藁と萱(かや)で船を造り、夜に火をつけ、笛・太鼓で囃子ながら中野川に流します。それは村内安全と疫病退散を祈り、その年の豊凶を占うためだと村人は云います。大川原の火流しをねぷた行事の古い形だと考える人もいます。「灯籠」という形で流すのがねぷたであると規定するならば、それからはずれますが、「火」と「流す」という要素で考えれば類似することになります。

 

大灯籠

 文禄二年(一五九三)七月、津軽為信が京都に滞在中、うら盆会に二間四方の大灯籠を出して「津軽の大灯籠」と評判になったことが、ねぷた関係の書物の多くに書かれています。事実かどうか、その年代、出典である『津軽偏覧日記』自体が問題です。たとえ事実であったとしても、ねぷたの「起源」・「創始」の年代としてよいか、疑問が残ります。ただし、形体の面では、後年でも「額ねぷた」として四角な箱型の灯籠を出したり、お寺に掛けた盆灯籠を流用することもあり、運行せず飾るだけの形態もあったのであながち否定し去ることは出来ません。しかし街を「運行」し、七日に「流す」ことがねぷたの重要な要素であると規定するなら、その範疇からはずれることになります。額灯籠については第二章ですでに検討しました。

 以下の資料によって、盆ばかりでなく七月七日の行事にも、灯火を供えていたのがわかります。

『建武年中行事』「七日、夜に入りて乞巧奠あり、庭に机四をたてて、燈台九本をのをのともし火あり」。『禁中近代年中行事』に「七夕祭り 常の御典御庭に・・御燈七ツともし・・」

 『夫木和歌抄』寳治二年 百首 乞巧奠

  信實朝臣

 見るままに庭のともし火かすかにて 七夕祭る夜は更けにけり

  常盤井入道太大臣

 しら露の玉のそごとの手向して 庭にかかぐる秋のともし火 

 

 

第二節 殿様の観覧・喧嘩

 

亨保 七年一七二二) 七月六日 津軽信寿が織座でねぷたを観覧しています。藩日記に「ねふた高覧被遊候 ねむた罷出候・・右之通ねむた流紺屋町より春日町え罷通候・・」と書かれています。藩でねぷたに関して書き留めたのは、殿様が観覧したからであり、ねぷた行事その物を記すためではありませんでした。書き留める内容を見ますと、他は藩が庶民の行為に干渉し規制する意味でねぷた喧嘩を禁止があります。  

 元文 四年(一七三九)七月六日の『藩日記』に「子供ねふた流候節 礫を打木太刀ニ而打立・・」。石を投げたり、木刀で殴ったりするので、そんな喧嘩はやめる様にと町奉行へ申しつける、と書いています。ねぷた喧嘩については、黒石でも色々ありましたので項をあらためて書くことにします。 

 

亨保 九年(一七二四)七月七日にも「殿様御高覧ねふた弘前ニ有之候」と『永禄日記』にあり、以下殿様が御覧になったと言う記事でねぷたが記録されています。( 亨保一一年、一五年、宝暦 六年)

 殿様に見せるための特別のねぷたが作られたのでしょうか。庶民のねぷたとは異なる形や運行の仕方があったのでしょうか。藩のお達で「見せなさい」と言われれば行列を組んで見せただろうことは、亨保 七年一七二二)の記録に運行した八町に順番が付けられているので想像できます。見せてもらった殿様は何か褒美を与えているのでしょうか。弘前の記録にはありませんが、黒石では記録があるので後に述べます。庶民の行事で殿様が観覧しているのは他に盆踊りがあります。(平山日記 三〇五頁)逆に殿中の催物では能を庶民に見物させることもありました。その例としては延宝三年(一六七五)の「三月六日御能被仰付、御町之者江見物仰付」の記録などがあります。(今 一七六九 上四六頁)夜鷹殿様とあざけりの名を付けられた一〇代藩主信順、その殿と側妾を楽しませるために家老の笠原近江が媚をうり、御膳立てしたのは、酒宴、音楽、花火、そして佞武多、盆踊りであったと内藤官八郎が『弘前藩明治一統誌』に書いています。(内藤三八、四〇頁)

 

第三節 弘前のねぷたの飾り・大きさ・乞巧奠

 

 黒石の灯籠の大きさや題材は第二章で述べましたので、ここでは弘前のものについて調べます。亨保一一年(一七二六)七月、『平山日記』に「十一日ねぶた有り品々色々之かざり物、灯籠等之細見物なる事にて候」と品々、色々の飾りがあり、灯籠の細工も見事であったと、また亨保 九年(一七二四)には「大そうなる事」とありましたので、この時代すでに単なる「額灯籠」だけではありませんでした。(平山日記  二〇四、二一一頁)同書には、宝暦 六年(一七五六)七月六日  にも「町々の灯籠善美を尽して花やかなる事なり」とあります。(平山日記三〇五頁)

 天明 八年(一七八八)の頃に比良野貞彦は『奥民図彙』に「子ムタ祭之図」を描いているので、人物の大きさと対比させると、構造や大きさが大体わかります。偶然眼にとまったねぷたであったのか、他に異なった形体のねぷたが運行されていたのか、書かれた様式のものしかなかったのか全く判然としません。

 大きさが分かるのが、寛政 五年(一七九三)七月一日『封内事実秘苑』の記述です。「祢ふた当年堀端辺大道ニ而 幅一丈八尺 高サ五間之額など出候」(『封内事実秘苑』)。横幅が一丈八尺もあり、高さが五間もありました。灯籠を習慣的に「額」と呼んでいますが、四角い形であったからなのかはっきりしません。これらについても、第二章で考察しました。

 

 

 

文政の頃(一八一八〜一八三〇)の佞武多灯籠の飾りやサイズを内藤官八郎(一八三二〜一九〇二)が説明しています。これも第二章「構造」の項で述べました。

 乞巧奠について津軽の記録では宝暦六年(一七五六)七月朔日乞巧奠ネブタ有」が初見です。(平山日記三〇五頁)

 

 第4節 菅江真澄の記録・『津軽俗説選』

 

  菅江真澄の『牧の朝露』に「ねぶたもながれよ、豆の葉もとどまれ、苧がら おがら」太鼓、笛をならして声を張り上げて歩く下北大畑ののねぷた流しを記述しています。

 

 寛政 五年(一七九三)七月六日 いまだくれはてぬに、わらは、むさかななさか、あるは丈斗の棹のうれにいろ画かいたる、けたなる火ともしに七夕祭としるして、そが上に小笹薄などさしつかね手ごとにささげ持て「ねぶたもながれよ、豆の葉もとどまれ、苧がらおがら」と早し、つづみ、笛に声どよむ斗ありくは・・・飽田郡にては、ねぶりながしといへど、ここにては、なぶたながしといふめる・・。

 七日 こよひも、火ともしたかやかにふりかざして童ののしりありけど、過ぎし夜よりは、ひのかげおとりたり。(第二巻 三五四頁)

 

 

 寛政 八年(一七九五)

 菅江真澄の『外が浜奇勝一』に木造の状況があります。

 七月四日 笛つづみにはやしどよめけば、わらはべ、をのれをのれが手ごとに、燈の器をおもひおもひ作りもて、てりかがやかし、ふりかざし、びちもさりあへず、よひより更るまで火とのむれありくは、れいの、ねぶたながしなめり。

   六日 [鯵ケ沢町米町にて]「小余火は、明神之かんわざとてにぎははしう、尚、ねふたのさざめきはやしありけるやらん、いまだくれぬより、そのよういぞせりける。(巻三 一四八、一四九頁)

 

 寛政 一〇年(一七九八)

 七月七日  [西津軽郡轟木にて]「くれてつづみうち、ふえ吹て、ねぶたながしのあそびあり。     

 

『津軽俗説選』に「お上(かみ)に叛いた蝦夷を罰して、鉦太鼓で囃しながら送ったことがありましたが、それがちょうど七月六日であったので誤りを伝えて祭りの灯籠となったのではないか、ネプタは多分アイヌ語でしょう」と著者は意見を述べています。

 また同書「後後拾遺」に

「七月六日の夜ねぶた流しと呼んで、色々の灯籠を拵へ七夕祭と書て、持歩行く、是を牽牛、織女の二星祭也といへり。

 或人の曰弘前のねぶたながしと云うもの他方になし、鯵ヶ沢には生靈祭とて、是に似たる事有、弘前のねぶたは元禄の頃、外が濱の蝦夷上にそむく、是をとらへて六羽川にて(今の宿川原の末なり)刑罰せり、七月六日の夜の事にして、此罪夷を鉦太鼓にて囃子送りしを、誤り傳へて祭りの灯籠となれり、子ブタと云ふも疑ふらくは蠻語ならんか、七夕祭は七日の夜にして、星に詩歌など手向ぬ、六日にては早し、生靈祭にては盆の事なれば猶早し。(一七〇頁)

 「誤り傳へて祭りの灯籠となれり」と指摘しながらも蝦夷征伐とねぷたの関係について記している重要な資料です。なお、蝦夷征伐については後に論じます。

 工藤白龍による『津軽俗説選』は天明六年から寛政九年(一七九六)までの間に成立したといわれます。この書の「後拾遺」に次のように説明しています。

里俗七夕祭のとうろふをねぶたと云ふ。秋田城下にて是を眠り流しと言子ブタは、眠たいの略語にして立秋より長夜になれば、短夜の眠たきを流しいる里諺なるべし。七夕の事も七月七日の夜、織女牽牛へ嫁すと云武丁仁人の素転的より誤り伝へしものにして夫へ附会せしものなり。(工藤白龍 一七九七 一三二頁)

 

 

第五節 黒石の歴史

 

 第一項 藩政期

 

以上天明期まで、弘前を中心に歴史を見てきました。弘前近在では庶民の年中行事としてねぷたが行われていたことしょう。佐藤雨山はは、『黒石地方誌』に天明四年(一七八四)の凶作について記しています。その中で、「七夕の祭りが例年の通りに賑わしく行われた、盆踊りは淋しく、空腹の者は見にも出ない、食べ物に不自由ない者だけが踊った。」、すなわち「七夕祭例年の通賑敷、盆踊淋し空腹之者は見物にも不出、飯料自由之者斗踊在」、と『山田家日記』から引用しています。(佐藤 一九三四。一四二頁)

ねぷた行事を「七夕祭」と黒石では後世に呼ぶ習わしなので、賑わしくねぷた行事が行われたと一応考えてよいでしょう。黒石では天明六年(一七八六)から、ねぷたに関する記録を確実に見ることができます。たびたび指摘しましたが、それは『分銅組若者日記』が残されていたおかげでした。

 黒石藩の成立を参考に記します。

明暦二年(一六五六) 黒石領主 津軽信英

文化 六年(一八〇九) 黒石藩成立。(4・5)

天保二年(一八三一)

 消防組の名称と組織を以下のように改めました。いろは組は丸山組、浜町は丸中組、元町は角元組、鍜冶町は井桁菱水組、上町は分銅上組(黒石市『通史T 六七一頁』

天保 四年(一八三三)

「七月七日 黒石の家中連中がネブタを出すことになり上町組の若者連の手伝いをうけた。上町組からは五十人の延人員が出たので、この日家中連から酒肴を贈られた」、(佐藤一九三四 一二五頁)。この文では佐藤雨山が分かり易いように「ねぷた」と書いていますが、『分銅組若者日記』には「ねぷた」とは一言もないのは、第一章・第一節で述べたとおりです。

 天明から天保へ時代を飛び越えましたが、その間に 以下の記述があり、参考になります。天明 八年(一七八八)頃の比良野貞彦『奥民図彙』、寛政 五年(一七九三)菅江真澄『牧の朝露』に下北大畑のねぶた流し、寛政 八年(一七九五)『外が浜奇勝』に木造の状況など。弘前藩では喧嘩差し止めのお達しを何回か出し、また藩主が観覧しています。これらは巻末の「年表」で確認してください。

 

黒石藩の奨励と干渉

 天保 六年(一八三五)六月二十日「各町内毎にネブタ運行、藩でこれを奨励した。奉行所では各組に酒二斗づつ振舞った」(佐藤1934:219)。

 この記事も、『分銅組若者日記』で確認できませんでしたが「酒二斗づつ振舞った」のですから、黒石藩の殿様の方が庶民思いのようです。しかし、これは庶民による記述なので、弘前藩でも、庶民の記録があれが酒を賜ったなどと書かれていたかも知れません。ここで藩の奨励と干渉についてまとめて記します。

 天保一二年(一八四一)には黒石では藩の家臣も七夕祭に参加して灯籠を出していますす。御家中が多く参加した記録は嘉永五年(一八五二)に見ることができます。

 天保一三年(一八四二)に「上様より若者中へ七夕祭が仰せ付けられた」として、五組は立派な灯籠を出しています(後述)。

 しかし、弘化 元年(一八四四)には運行しなさいと命じ、藩主が各組に酒を一斗づつ賜ったのに、後に灯籠が3尺を越えていた廉(かど)で、罰しました。(1ー28)このように藩が規制と言う形で関わってくるのが分かります。

『御用年中定式』をみると、七夕灯籠の大きさは三尺を超えてはならない、運行の日程場所喧嘩口論をしてはならないなどと定めています。もし心得違いの者がいたなら「廻役が搦(から)め捕る」と書いてあります。この『定式』には宗芳(姓不詳)が安政四年(一八五七)以降に書いた黒石の町役人の役割についての覚え書きです。原文の一部を左にあげます。

 

当七夕灯籠之儀 前々被仰付茂在之 三尺余の額灯籠而差出不申候筈 組々寄合灯籠之儀ハ数年出来得共 御省略中堅ク御差留被仰付候之間 尤五日夕迄丁内限 六日惣町持歩行之儀 是迄之通不苦候 大手御門内持歩行候儀当分之内御差止(中略)

一 喧嘩口論 御猥構敷義杯無之様 子供等ニ至迄 悪口雑言等申唱不申候 若右体心得違之於在之者 廻役二而搦捕急度可被仰付候

 

「七日 七夕。七夕シチセキの節句。七夕祭。また、盆のなぬかび。武家は七夕シチセキの徒祝、町家では節供の祝いをした。農家は休日である。(黒石市一九八七。四八二頁)

 

天保七年(一八三六)以降の歴史

 

天保七年(一八三六)   七月十二日 

 「上町組でネブタ製作、尤も前年用いた大張物の骨に張替え書き替へたもので書役は清水治三郎と言ふ男である。多分扇灯籠の事であろう」(佐藤1934:220)。

 右の佐藤雨山が推測する「多分扇灯籠の事であろう」は多分当たっていないでしょう。この年れから明治までの百点以上のねぷた灯籠の絵に扇らしきものは一点のみですから。

 

 

天保一二年(一八四一)

運行された四個の絵が『分銅組若者日記』にあります。(3-262 P47   P48)

上様より若者中へ七夕祭が仰せ付けられ、五組は次のような灯籠を出しました。山形町組は大黒天、中町組は百人一首百重ね。鍜冶町組は牛乗りの牧童、上町組は獅子権言、元町組は攀噌門破り、御幤を持った舎人。その他に各組とも町印を前年の通り出しました。(佐藤一九三四。二二二頁、黒石市一九八七 四八八頁)

 この年の灯籠については佐藤雨山・工藤親作『浅瀬石郷土志』にも説明があります。原本ではBー269以下に一〇個の灯籠の図があり、四つが町印の灯籠です。町印を灯籠にするアイディアはこれから復元しても面白いでしょう。角灯籠二つ重ねの上に太鼓、軽業師、一富士二鷹三茄子、筆立て及び本、硯等を置いた机、大黒、これらには庶民の関心のありかたが表されています。

「御家中」としてサンボウに載せた二本の御神酒とっくりの灯籠が出ています。

黒石では藩の家臣も七夕祭に参加していたのです。

 

天保一(一八四四)(一二月二日より弘化 元年)

  この年の出来事は前述しましたが、七月六日に町奉行からお触れがあり、藩主がネブタタを観覧したいので運行しなさいと命じました。そして五組や町家が出し、藩主が各組に酒を一斗づつ賜ったのでしたが、後に灯籠が3尺を越えていた廉で、罰せられました。(1ー28)これも『黒石地方誌』(1935)317頁以下に詳しく記述があります。町年寄と名主の四人が五日間の戸閉、若者頭は禁足の上七日間の戸閉、小頭は他処出差し止め閉の処分でした。『分銅組若者日記』にはこの年の絵は描かれていません。

弘化 三年(一八四六)七月

 各町内では先年の苦い経験からして何れも小ネブタばかり僅かに出しました。藩では七つ時から大手西の両門を開放してネブタ上覧と云ふ事にしました。(佐藤1934:231)。この年以降には『分銅組若者日記』に絵は描いてあってもサイズが書かれていません。 嘉永 五年(一八五二)山形町組で出した扇の灯籠に高さ四間位と記されで以来、再び大型の灯籠のサイズが記されています。藩の方針が変わったのでしょう。

弘化 四年(一八四七)

 運行された4個の絵が『分銅組若者日記』にあります(3ー270 P48)。

嘉永 二年(一八四九) 

 運行された6個の絵が『分銅組若者日記』にあります。(2ー125 P48   P49)。

 下町組では碁盤衝立、上町組では寶船、山形町組では海獣、鍜冶町組では御幤、中町組では天狗面、其他横町では別に九尾の狐を作りました。(佐藤1934:235、黒石市:491)。

嘉永 三年(一八五〇)

 運行された五個の絵が『分銅組若者日記』にあります。(2ー145 P49)。

嘉永 五年(一八五二)

  運行された一七個の絵があります。(3ー187  P49  P50  P51)その中で、山形町組では扇を額の上にのせた灯籠を出しました。高さは全体で四間位であり、扇を開いた部分の幅は二間位、一人持ち用の棒が付いています。こんなに高い灯籠を一人で持つには大変だったでしょう。函館の画〔図6〕(27頁)に見られるように綱を付けて倒れないように横で支えるためかも知れません。畫は立体がわかるように描かれていないので、扇の奥行きは不明です。平面であった可能性は否めず、現在の扇灯籠のような厚さが無かった可能性の方が強いでしょう。しかし、黒石に残された百点余の畫で扇を型どったのはこの一点ですので形の歴史を知る上で貴重な資料となっています。

 五日の夕方に運行について喧嘩が始まり、町同心の高橋浅吉が負傷したので六日の夕からは運行は町内限りとされました。同心とは与力の下にあって、警察のことをした役人です。(佐藤一九三四。二四二頁)

嘉永 (一八五四)

「七月五日。各町内共一人持のものばかり出ました。

(佐藤一九三四。二四八頁)                 

安政 元年(一八五四)

 一〇個の絵が『分銅組若者日記』にあります。(P51  P52

安政 二年(一八五五)(P52  P53) 

 黒石、一四個の絵が『分銅組若者日記』にある()。上町は兎。印刷コピー不完全 町名不明  小槌、屋台に三人物。澤忠は屋台に二人物。

 □木は瓶。□屋は鳥篭。金魚。三郎。不明。吉村は人物。□屋は魚と人物。□長は龍宮?。吉村様は欄干の上の牛若丸。榊□。

 函館のねぷた

  安政年間のねぷたの状況が分かるので函館の例をあげます。平尾魯仙(一八〇八ー一八八〇)は安政二年 六月一七日から七月七日まで松前を遊歴し、紀行文を三冊の著書にまとめました。

 外国人が、七夕の夜に地元の若者に交じって、ねぶたを担ぐ者や、綱を引く者のあったりする。ヤッサ ヤッサと囃子声を上げて、挙げ句の果てには肌を脱ぐものもあり、鉢巻きをする者もあって、勢いよく跳ねまわり、ねぶたが終わるまでついて歩き面白がっている。、

 

「七夕の夜、若者どもに立交りてねぶたをかつぐもあり、縄を曳も有て、ヤッサヤッサと囃子たて、果ははだぬぐものあり、鉢巻するも在て、小勇してはちまわり、終しまひまで付随ひて興ぜしなり。」(平尾魯仙『函館夷人談』)

 

 異人もねぶたに交じって興じて居る様子がわかります。更に詳しく『松前紀行』は大きさ、形状、運行の次第、囃子詞、七カ日の風習等を記述しています。

 灯籠には種々の形があるが、中には山車の台に載せ、囃子方がその上に乗って囃すものもある。額上に葉竹をさして、短冊を下げる、種々の囃子詞の後に「ヲヲイヤ ヲヲイヤ」を掛ける。七日の昼過ぎに海に投じて祝うとあります。

 

  (『松前紀行』写真)

 

 

 『函館月次風俗畫拾遺』によっても函館の七夕祭の様子や、七日に海岸から額灯籠を流したことがわかります。

 

  七月七日 七夕祭と相唱ひ、寺子や子供等の者より銘々額灯籠差出、竹に五色短冊結付、前日より子供等師匠々々え集り、太鼓・笛打ならし、町々囃子立押歩行、今昼頃右額灯籠海岸より相流し候仕来りに御座候。

 

『函館風俗書附函館月次風俗畫補拾』には更に詳しく、台車の構造、囃子方、蝋燭、灯籠の題材、動物、魚、人物、器物・玩物などがあること、曳方など克明に描写しています。貴重な資料なので原文を記しておきます。

 

 七夕祭 大額灯籠は方弐間余りに囃子屋台やうの者を四ツ車のうへに組み立て、幕を四方に張廻して、此中、笛・太鼓・三味線等囃子方、其他の人数弐、三十名計りを乗せ、其上には竹を骨とし紙を皮とし種々の物像を制作し、像によりて種々彩色を施し、夜るは数百丁の蝋燭をテンずるが故に、光彩サン爛、制作の工みなる、彩色の鮮やかなる、虎あり、象あり、孔雀あり、鯛あり。英雄の像、勇婦の姿、其他器物、翫物の類等、思ひ思ひ人々の好む処千差にして万別なり。此車を曳くもの数百人。大額灯籠は巾壱間半位より三間に至り、長さ三間或は四、五間に至るが故に、街路巾の狭き処は混雑喧噪、果は彼我互に 打等往々これあり。中額灯籠は数十人これを肩にして持行くなり。かくの如き額灯籠大中混じて三、四十或は五、六十(其年により多少の差有)、市中至る処喧々又嘩々、此他数百千の小灯籠或は五十或は百と、組を異にし、隊を分ち、童男童女綺羅を飾り華を粧ひ、太鼓に笛に豊年万歳を唱えて市中を押廻るの有様、六日夕より七日昼にかけて人々皆狂するかと怪しむ計り。実に一年中の賜ひ此七夕祭りを以て最盛とする物なり。大額灯籠は一家一手にて制作するもあり、又は数家組合ふて制作するもあるなり。

 

安政以後の歴史

 

安政 四年(一八五七)

 青森、七夕祭大にぎわい。青森関係の資料はこの時代ほとんどありません。

文久 三年(一八六三)

 山形町と中町の喧嘩は和解まで三ケ月かかりました。あらましは喧嘩の項でのべましたが、さらに詳しく読みたい人は『黒石地方誌』(三〇七〜三一四頁)を読まれるといいでしょう。

 運行された5個の絵が『分銅組若者日記』にあります(@ー67ff)(P54)。ここまでは読み下し文だけでしたので、原文がどのように書かれているのか参考にそのままに紹介します。判読すると次のようになります。

 

「一 七月六日 五組一統 七夕祭 御上様 御奥様 御□□□ 御見聞被仰付候 五日晩 六日晩 両覧 此高サ六間半位」

[別の筆跡による追記が薄く見える。即ち]

「名主様 柳屋竹次郎様」

 [ネプタの写生(掛け軸に御供え)がありその左に以下の説明がある]。

「丸中組中町壱番先ニ被仰付  右□□□御役所より名主様先役□上之被仰付 若者頭 吉屋徳助□」

[最後の氏名は重ね書きをして不鮮明である。次頁に二行文字あり。即ち]

「名主 盛七衛門様」

[山形町のねぷたの写生(唐人、二名を描いた衝立)の画があり、]

「此高サ六間」 丸山組 山形町七夕祭 此度改而名主様□定被仰弐番に相成候 若者頭吉屋徳助

 

 [上町は次のごとく記されています]。

「名主様 岡崎春次郎様 此高サ四間余」

[灯籠(天岩戸 欄干が付いている)の描写]。

分銅上組、此度三番に被仰付 名主 先役□定ニ被仰付候 若者頭 斎藤佐助」

 

 [次の頁は元町の植木鉢に植えられた松の灯籠です]

「名主様 鳴海三次郎様 此高サ5間半位」

「菱元 組 下町 此度改而名主先役□定 被仰付 三ノ所 四番ニ 相成候

若者頭 藤野勇次郎」

 

 [次の頁は井桁水組です]。

「名主様 柳屋次兵衛様 此高サ六間位」[

灯籠(梵字が書かれている幟)の描写]。

「井桁鍛治町組 此度名主先役□定ニ被仰付  五番ニ當り被仰付候 若者頭 後藤甚吉」

 (佐藤1934:308にもあり)。

 

慶応元年(一八六五)

 運行された4個の絵が『分銅組若者日記』にあります。(A-24〜25)(P54  P55

  つい立て、折屏風が形として特筆されるべきです。

 

慶応 二年(一八六六)

 運行された七個の絵が『分銅組若者日記』にあります。(Aー42)(P55  P56

 

佐藤雨山は、 「七月。 今年のネブタは小形物ばかりで、ただ山形町組ばかりは高さ四間巾一丈のものを出した。ネブタには大きなミオクリがついている」 と述べています。(佐藤一九三四。二五八頁)しかし、『分銅組若者日記』の絵を見る限りでは大きいのは山形町ばかりではありませんす。

 

慶応 四年(一八六八)(九月より明治)

 運行された一一個の絵が『分銅組若者日記』にあります。(Bー9ff)(P56  P57

山形町、鍜冶町、中町のが大きく描かれ、他の八個は小さい。

 

 山形町組のは 獅子踊であり高さ五間、幅壱丈 台には「豊歳□祭」とあり、つい立て状の本体には獅子踊りの絵、もしくは人形があります。横に「師々踊 太鼓笛中野」と書いてあるので、囃子は中野の人たちが担当したのがわかります。七夕行事にどの辺までの地域が参加していたのかを知る資料となるでしょう。

 鍜冶町組 「高サ五間位 玉藻前 画があり、鍜冶町組」とあります。

 玉藻前タマモノマエは金毛九尾の狐の化身。中国でさんざん悪事を働いてから日本にやってきて、亀羽天皇を悩ましましたが、阿部泰親の法力で那須野に飛去り殺生石となる。その石を砕いたのが玄翁であったので、金槌をゲンノウとよばれるようになったとの、伝説があります。黒石では題材としてしばしばも用いられています。 

 

    中町組 「高サ四間位 弁慶 画 あたかの関所」とあります。

 

「此度ご奥様御覧□□ 五ケ組若者組へ御酒頂戴被仰付□組 三具入□□身欠□□□□ 山形町組右同前 鍜冶町組右同前 中町組右同前 上町組 酒□斗身欠三□ 下町組右同前  山形町組 別ニ奥女中方より金三両□□」。

 

 不明な文字が多いので、佐藤雨山の解読を参考にあげます。

 「今回は藩夫人からネブタ観覧方町に申し付けられ、祝儀として町五くみに三具入り一ケ身欠鰊二束づつ贈られた。尤も大ネブタ運行した山形町組、鍜冶町 組、中町組には特別の心付けあり、中にも山形町組に奥女中連から金三両の祝儀があった。」(佐藤一九三四。二八〇頁)。

 

  以上で藩政期の七夕行事の歴史を終わり、明治期の様子を見ましょう。