「目にもあざやかに絵は極彩色に描かれ、灯籠というよりは、それはむしろ透かし絵なのです。何百という美しい提灯が、奇想天外な形、扇や魚、鳥、凧、太鼓などの形をして、中央の大きな灯籠を取り巻いているのです。大人も子どもも、何百人でしょうか、みな手に円い提灯を持ってついて来ます。まったく、お伽噺の世界、こんな幻想的な光景をいまだかつて見たことがありません。」

 明治一一年八月五日の夜、黒石のねぷたに感動してイギリス人女性が書いた文です。「ドンッコドンコ ドン ドン太鼓が鳴って、提灯の波は揺れ、ともし火は柔らかく、淡い色彩が夜空に吸い込まれ去っていく」。外国人にとっては妖精の提灯に見え、お伽噺の国に迷い込んでしまったのかと思たのでしょう。

 明治一五年にねぷたは再び運行許可になりました。明治五年に、盆踊りなどと一緒に野蛮な習慣だと禁じられていたのでした。一五年の許可を待たずに黒石では明治一一年に、こんなにも盛大に催されていたのも驚きです。

 黒石のねぷたで特筆すべきは、天保二年(一八三一)からの文献に、ねぷたに関しての記録が残されていることです。それも単に文字による記録ばかりではなく、絵が描かれているのです。明治元年までの間に、百点もの絵があるのです。歴史資料として、非常に貴重なのです。なぜなら、弘前のねぷた灯籠に関しては文章記録は黒石より早く、それなりに数も多くあるのに、絵がほどんどありません。ただ一点だけ天明期の様子があり、描かれた四角な箱型の灯籠が、ねぷた灯籠の原点であると誰しもが考えているからです。

 他に形が想像できる記述として、 菅江真澄による紀行文があります。また、明治になってからの内藤官八郎(一八三二〜一九〇二)の文によって、文政期(一八一八〜)以来のねぷた灯籠の構造や題材を知ることができます。平尾魯仙(一八〇八〜一八八〇)の絵を模写したといわれる文久年間(一八六一〜一八六三)の絵、これらの記述や絵から、構造や大きさ、飾りを想像するより方法がありませんでした。くわしくは第二章で検討することにします。

 本書を上梓する第一の目的は『分銅組若者日記』にある灯籠の絵を全て紹介することにありました。ここで、その資料について述べます。

 

 

『分銅組若者日記』 

 この資料は以前から郷土史家に知られていました。佐藤耕次郎・雨山(一八九三ー一九五五)は『分銅組若者日記』に書かれているねぷたについて二・三の書物に紹介していたのですが、その原典は紛失していました。佐藤雨山の記述は、原典にあった記録のすべてなのか、どこまでが資料にあり、どの部分が彼の説明文なのか不明でした。ねぷたの歴史を考察するとき、結局は不確かな情報でしか推理できませんでした。

 佐藤は昭和六年刊行の『浅瀬石川郷土志』に「黒石のネプタと馬乗(民俗)」の一節を設け、天保一二年(一八四一)の七夕祭で運行されたものだと、灯籠について説明しています。その箇所で「以上は金正日記に図を添えへられているものである」と、『金正日記』を用いたとしています。続けて、「右日記の中には喧嘩の事はそう書かれてないが、同人の筆記と見ゆる分銅組若者日誌の中には喧嘩の事は出ているから述べて見やう。」と、それとは別に『分銅組若者日誌』に依拠した事を明記しています。(佐藤一九三一。一四七頁)

 現存する『分銅組若者日記』にある同じ絵九点を、『金正日記』からのものとして上述の『浅瀬石川郷土志』に載せ、「昔ノ黒石ノネプタ (天保十二年丑年金正日記に畫レタルモノ)」としているのは、混同したのか、同じ図が『金正日記』にもあるのか不明です。(佐藤一九三一。一四七、一四九頁)

 昭和九年(一九三四)刊行の『黒石地方誌』には、『分銅組若者日記』の書名があり、その引用文には「同日誌」とあり、「記」と「誌」の両方が用いられています。同書の三〇八頁以下では『分銅組若者日誌』、「同日記」と「同日誌」が用いられています。(佐藤一九三四。一八四頁、)

 正しい文献名は「記」です。「誌」でも「記」でも同じ資料であることが分かれば問題はないのですが、『浅瀬石川郷土志』に天保一二年(一八四一)として記述した内容が『黒石地方誌』では天保一三年(一八四二)に変更になっています。原本ではどうなっているかが、重要になってきます。

 前述の通り、原本はしばらくの間、行方不明でした。そのため、ねぷたの歴史を考察する人は佐藤雨山の書物に依拠するしか方法がありませんでした。例えば、年号の不一致は糺しようがなく、原本になく佐藤雨山が想像して書いた喧嘩の有様はそのまま実際にあった状況として二・三の書物に引用されてしまいました。

 幸いなことに、その貴重な史料は篠村正男氏の実家、温湯にあるお寺の蔵に眠っていたのが昭和五八年に発見されました。原本の原寸大の複写がなされ、黒石市教育委員会に現在はコピーが保管されています。

 

   体裁・筆者

 サイズ:『分銅組若者日記』は大小二種類の大きさからなります。小さい方は、横二四a、縦一六aの和紙を横長に二つ折りにし、綴じたものです。綴をはずし、開くと[図1]のようになります。四分冊ですが、黒石市教育委員会では1、2、3、4、と番号をふり頁数も付けています。本書の引用でも(1ー00)のように記しておきました。

 大きい方は、横三五a、縦二四aの和紙を横にして綴じています。同じく三分冊であり、黒石市教育委員会では@、A、B、と番号をふり、頁数を付けています。本書の引用でも(@ー00)のように記しておきました。

  用紙:裏紙を用いている頁もあり、裏の墨がにじみ出て殆ど読めない箇所もあります。

 記述:毛筆による漢字、ひら仮名、片仮名による記述とスケッチ画。筆者は多分、一人だったでしょう。佐藤兼次郎が筆者であると『黒石消防史』は特定しています。(絵利山一九五二。六〇頁)文字は筆者の自己流の略しかたで書いているので、判読するのが大変です。佐藤雨山は忍耐強く解読したに違いありません。佐藤による前掲の二著が解読の参考になります。

 頁の混乱:小さい方の第四巻の頁が特に年代順になっていないため、記述内容の年代の特定が難しくなっています。

記述内容

  黒石には五つの火消し組がありました。その中の一つである上町カンマチの若者組が記述した当用日記であり、天保二年(一八三一)から明治四年(一八七一)までの四一年間に亙って、消防組に関する日常的なことがらが書かれています。

 昭和六二年刊行の『黒石市史 通史一』に『分銅組若者日記』にあるねぷた関係の文や絵は「七夕祭灯籠」として用いられていますが、「通史」であるためか、全てを紹介する紙幅なかったようでした。絵は縮小され、三六点だけ掲載されています。篠村正男氏の好意で原本を見せていただき、写真を撮ることを許していただき、今回の計画を実現することが可能になりました。

 この文献によると、ねぷた祭りは「豊歳祭」とか「二星祭」、「七夕祭」と書かれており、「ねぷた」は一文字もありません。灯籠自体を「トロ」、飾り灯籠の本体はヤマ[山]と呼んでいます。

 

 

 

  本書では先ず七夕を説明し、二星祭などに関連する行事をはっきりさせてから、黒石のねぷたの特質を明らかにしたいと思います。当然、弘前や青森県全体のねぷたが問題になりますので、書名も「津軽ねぷた論攷 黒石」とし、ねぷた行事を広い視点で捉えるよう努力しました。

 引用文はなるべく原典のまま記載します。出典も一つ一つ明記することにしました。煩わしいと思う読者もいるでしょうが、前述のような年代の不一致や、内容の真偽を確認できるように、また、本書を読まれて、疑問に思ったり、もっと深く考察したい人の便宜を考えたためです。巻末に付した年表にも、原資料を載せることにしました。なお「戦後の黒石ねぷた概略」は中田伸一氏の労作によるものです。「年表」は笹森と中田氏の合作です。