黒石ねぷた祭り
青森県黒石市 青森県民俗無形文化財 since 2004/02/03
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ねぷた祭りは、本来旧暦の7月1日から7月7日(なぬかび)まで行われたきた祭りです。1日は朔日(ついたち)。新月の夜。暗闇の中ねぷたは運行されたのでした。1年の半分が終わり新しい半年がはじまるこの日は、収穫に向けてとても大切な1週間でした。
黒石ねぷた祭りは、江戸時代には「 七夕の祭り」として記録されていました。
この津軽の夏の祭り ー「祢むた」が「ねぷた」「ねぶた」と、はっきり呼称がわかれたのは、昭和55年(1980)に青森市と弘前市に国の重文の指定がされてからと言ってもよいくらいです。
津軽一円で行われてきたこの祭りは、江戸時代中期には津軽藩日記(1722)に名前が現れ、「ねむた流し」と記述されましたが、現代口語では、「ねむた」「ねんむた」という語感であったと言われています。
このホームページでは、黒石ねぷた祭りの今の様子から、遠く歴史を遡って江戸時代からのねぷたの歴史を「津軽ねぷた論攷 黒石 《分銅組若者日記解》」(1995発刊)の紹介をしながら探っています。
勿論最近の祭りのビデオクリップや写真も盛りだくさんです。
民俗学からのねぷた祭りの考察など様々な考察をしておりますので、どうぞお楽しみ下さい。
黒石では一度も「祢ムタ」「ねふた」などの表記はなく、ねぷた行事をずっと「七夕祭」と表記していたので、この頃には、黒石でもにぎやかにねぷた祭りが行われていたと考えられます。
この名称には訳があって、現在まで残っている江戸時代の奥民図彙(おうみんずい)(1778)の「子ムタ祭の図」(ねぷたの絵と解説)の中でも七夕祭りだと解説しています。つまり、『ねぷた祭り』は、本来『七夕祭り』であったのです。もちろん柳田国男氏が、研究した『眠り流し考』での七夕祭りで、現在行われている七夕と全く同じと言うわけではなく、「ミソギ」「ハライ」の色彩の強い庶民の祭りでありました。そしてこのようなねぶり流しの風習は、日本海側各所に現在も残っています。
さて、この頃のねぷた絵というと、黒石には 「分銅組若者日記」(1831から1870)が現存し、江戸時代のねぷたの絵柄が100点記録されています。大きさの記されているものもあり、このころの最大のねぷたは、九間(一六メートル)のものが記録されています。またこの時期のねぷたは、みなかつぎねぷたでした。
このホームページは1997年1月7日jomon(縄文)に開設したものを
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2004年 2月03日より増強再掲載の最新版です
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