じりじりと熱かった真夏の太陽が、岩木山に傾き紅い色なると、夕立の後のような涼しい風が吹き始めます。するとねぷた小屋の方から太鼓や笛の音が聞こえだし、子供たちは、そわそわと小屋の周りに集まります。

 目はキラキラと光り、そしてその目は小屋の中のねぷたを見つめています。ただもう、そのねぷたが闇に輝く姿を想像しています。大人達がいっぱい集まって、ねぷたは毎日どんどんできあがって行くのでした。

 『な。それ取ってけろ。』

 と言われると、わーと何人も駆け寄って大人の言う通りにします。たくさん手伝うとアイスが貰えたり、お菓子が貰えたり。でも、ねぷたの前を歩く角燈籠をもたせて貰えるその役が、まわってくる可能性が高くなるのをみんな知っていたのです。二十人くらいしか持たせて貰えないので、それを持つのは選ばれた優越感で、大満足なものでした。

 でも、実際持つと、蝋燭の火ですから真っ直ぐ持たないと蝋燭がしたって大変で、それに下手をすると燈籠を燃やしたりしたものでした。

 こんなねぷた祭りは、昭和三十年前半の私の記憶です。黒石人であれば、誰でもこんな記憶が頭の片隅にあり、子供のころの大切な想い出になっているのではないでしょうか。

 

しかし想い出でとは遠く離れて、実際ねぷたが歴史に登場するのはいつ頃でしょう。

 『津軽信寿、織座でねむた流し観覧(津軽藩日記 享保七年 1722)』がそれです。この時までねぷたの記録は津軽にはありません。

 黒石では、佐藤雨山(郷土史家)は、「黒石地方誌」(1934)に天明四年(1784)の凶作について書いています。その中で、「七夕の祭りが例年の通りに賑わしく行われた、盆踊りは淋しく、空腹の者は見にも出ない、食べ物に不自由ない者だけが踊った。」と、「山田家記」から引用しています。



 黒石では一度も「祢ムタ」「ねふた」などの標記はなく、ねぷた行事をずっと「七夕祭」と表記していたので、この頃には、黒石でもにぎやかにねぷた祭りが行われていたと考えられます。

 この名称には訳があって、現在まで残っている江戸時代の奥民図彙(おうみんずい)(1778)の「子ムタ祭の図」(ねぷたの絵と解説)の中でも七夕祭りだと解説しています。つまり、『ねぷた祭り』は、本来『七夕祭り』であったのです。もちろん柳田国男氏が、研究した『眠り流し考』での七夕祭りで、現在行われている七夕と全く同じと言うわけではなく、「ミソギ」「ハライ」の色彩の強い庶民の祭りでありました。そしてこのようなねぶり流しの風習は、日本海側各所に現在も残っています。



 さて、この頃のねぷた絵というと、黒石には 「分銅組若者日記」(1831から1870)が現存し、江戸時代のねぷたの絵柄が100点記録されています。

 大きさの記されているものもあり、このころの最大のねぷたは、九間(一六メートル)のものが記録されています。またこの時期のねぷたは、みなかつぎねぷたでした。



 明治に入って、紀行文「日本奥地紀行」(1880年発刊 1973年邦訳)を書いたイザベラ・バード女史が、日本に来たのは明治十一年(1878)の春で、黒石に着いたのが、八月五日でした。黒石で彼女は、ねぷた祭りを見、中野に行ったり、温泉を見たりもしています。実は、ねぷたは禁止されていた時期なのですが、夢の中のできごとのように美しく黒石ねぷたを表現していることは忘れられません。

 また、明治34年黒石で大きいねぷたが三台もでたことが口承として伝えられています。八、九間は、当たり前。大太鼓が25、6台も参加して耳をつんざくようであったと伝えられています。明治期では、明治二六年のものが最大だと伝わっていますが、その大きさは伝えられていません。はかれないほど高かったのではと想像すると楽しくなります。(津軽夜話 三勝翁縦横談 津軽新報)



 昭和にはいると、バッテリーねぷたが登場し、照明が電灯化されたのは、黒石では昭和十年頃とされています。

 また、黒石で一番古いねぷたの写真は、大正十三年の温湯のねぷたで、さらに昭和六年、八年のねぷたの写真が現存しています。大正のものは明らかにかつぎねぷたです。昭和六年のものは、車で引くタイプのようです。かつぐものから曳くものへの変化も興味深い変化です。



 戦後黒石では、昭和二十一年鍛冶町 と馬喰町の青年団が合同で、戦後の沈滞ムードを一掃しようと、バッテリー電源の人形ねぷたを運行しました。

 さらに、黒石市制は昭和二十九年ですが、この年は不景気で参加ねぷたが減少したため審査が中止されたことから、翌昭和三十年から黒石青年会議所が、青少年の健全育成を目的に、合同運行審査を主催すると決定しました。



 以後46年にわたり(社)黒石青年会議所は、黒石ねぷた祭りを主催し、発展に寄与し、平成五年には、『青森県無形民俗文化財』の指定を受ける程の祭りとなったことは喜びにたえないことでもありす。

 黒石ねぷた祭りの特徴のであるその参加台数の多さは、世界一なのですが、これまでの所、昭和三四年、昭和六一年に八〇台の参加が、最多の記録となっています。



 平成に入り七〇台前後の数ですが、市の補助金もあり、全般に人形の参加台数が増加傾向にあることは、喜ばしい限りです。

 また、黒石ねぷたの美しさは、その本体の造作もそうですが、曳き手の子供たち。連れ添うお母さん達。囃し手のおはやし。そしてこれらを取り仕切る大人達が共同で育みだした美しさだと思います。これらが総合して初めてビューテイフルと言えるとも思います。

 


 今年も各町内地区毎に小屋掛けがはじまり、七月にはいると方々で太鼓や笛の音が聞こえてくるでしょう。

 子供たちはそわそわしはじめ、そして七月三〇日の黒石御幸公園。

 朝早くからねぷたが集まり。夕方には70数台が勢揃い。人人人。の大混雑。喧噪。太鼓の音。笛の音。喧噪。夕暮れ。ハッピ。鉢巻き。人形ねぷた。扇ねぷた。もうすぐ点灯。真剣な眼差し。夏の夕暮れ。審査への緊張。そして先導車出発。、合同運行審査。

 やがて夜も更け、満天の星空の下で、大人達は今年も語ります。

 いがったな。

 わらはんど寝らいねでらびょん。まなぐつぶれば、ねぷただべ。耳の奥底さはやしだべ。寝らいねじゃな。わ大人になった今でもほんだもの。




黒石ねぷたの簡単紹介