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昭和21年
昭和25年
昭和26年
昭和27年
昭和28年
昭和29年
昭和30年
昭和31年
昭和32年
昭和33年
昭和34年
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昭和40年

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昭和21年 目次へ

戦後の黒石ねぷたは、昭和21年すぐ復興されました。(1987/06/30) 津軽新報によれば、鍛冶町と馬喰町の青年団が合 併し戦後の沈滞ムードを一層しようと製作したものだそうです。バッテリーで、電球に点灯した黒石では初めてのもので、ありあわせの材料で、製作し、ねぷた師は藤崎の方にお願いしたも のだそうです。『戦争中は、6年も7年もねぷたを出来なかった。黒石はもとより県内ただ一台と思う』との話からも皆さんの黒石ねぷたへの 心意気が強く感じられます。写真(P  )鍛冶町の千葉精米所前での撮影です 。大人の姿が多いようですが、きっとその脇には、何倍もの子供たちがいたに違 いありません。太鼓が、二台みえますが、抱えてたたいていたものと思われます 。興が、のると前にいったり、後へ戻ったりしたのでしょうか。前灯ロウが、2つ先導し、子供達が、皆鼻白をして、はち巻をして、『やーれ やーれや』とロープにつかまりねり歩く。街一杯に、大人が、ねぷたの前曳きを し子供達を押えながら、堂々のねぷた運行の姿が、眼にうかぶようです。

昭和25年 目次へ

『近づく夏の景物詩 トーヒロ トーヒロ 郷土のネブタ』 これが、昭和2 5年8月9日付けのみなみ新報に初めて出てくるねぷたの記事の見出しです。『 トーヒロ』とは、ねぷたの笛の表現と思われます。なんとも牧歌的で、なつかし い感じがします。さて、この年のねぷた祭りの時期は、14日から 20日迄と なっています。当時は、まだ旧暦でねぷた祭りが、行われていました。ですから、その年によって祭り期間 が、変わっていました。新暦で、つまり今のこよみで、行なうようになったのは 、昭和34年からのことです。
昭和34年8月5日の『ひょうたんなまず』というコラムに、『ことしの盆は 、旧暦をすてて、新暦のひと月おくれにきまった。中略 子供は・・・ひと月お くれの八月一日から、ささっとはじめたのである。略』とあります。このころは 、新生活運動推進協議会等があって、官民あげて戦後のひとつの近代化をすすめ ていった時期でした。ですから、盆の時期もこの時変わり、各地のお祭りの時期 も、影響をうけたようです。さて、記事によると『六日現在黒石町で作られてい るものは、次の通りである。△宝舟 百姓町(高井善三郎)高さ十五尺、巾十二 丈二尺△安寿姫と逗子王丸 以下原文掲載の事 この中で、平将門の写真(P    )が、保存されています。高さ3.6M、巾3M程のねぷたの高欄の様子や 、なんと沢山の子供達。それぞれが、はち巻きをして、恐らく鼻白をして、思い 思いの服装で誇らしげに写真におさまっています。昭和21年の写真同様、写真 左手には、太鼓のたたき手の姿もあります。太鼓の台車は、いつ頃からなのでし ょう。さらに、電線をあげる竹をもった人の姿もみえる。当時の電線の配線の仕 方にもあったのでしょうが、いかにも必要なものに見えます。 この当時黒石町 では、およそ8台程のねぷたが運行されたようです。また、その題名からねぷた は、恐らく人形ねぷたであったろうと思われます。

昭和26年 目次へ

昭和26年8月3日には、ネブタ黒石町は、3基と少なくなっています。中郷 村2基との記述も見えます。当時は、ねぷたを1基2基と数えたのでしょうか。 扇トウロウ(元町)、浪岡町のねぷたの名前もみえます。花電車(袋井町)ともあります。花電車は、今は、見られませんが、写真(?)のよ うなもので    を描いたものが多かったようです。また、戦前の扇ねぷたの 様子は、どのようなものだったのでしょうか。

昭和27年 目次へ

また、昭和27年には、藤崎町で最初の届出とあります。現在でも道路運行許 可証が、必要なようにこの許可は、どの様な歴史をもっているのでしょうか。 昭和27年8月15日には、『黒石夏祭りの細目決まる』の見出しがあります。 『行事日程◇8月19日から9月7日まで点灯装飾照明コンクール◇21日から 27 日ねぶた祭り◇26日から27日広告祭◇9月4日5日稲荷神社御輿渡御 ◇9月6日国鉄黒石駅開設40周年記念式典NHKのど自慢コンクール児童作品展 示会、仮装行列、駅伝大会◇7,8,9日盆踊り大会、百万ドル花火大会、連合 大売り出し』のようなものでした。町、商工会共催で夏祭りとして開催されたも のでした。当時の盛んな様子が分かるようです。この年の8月27日付けの記事 では、横町上町の角が、人混みで大変で警察署交通係、ボーイスカウト30名が 、汗だくで交通整理をしていたとありますから、大変な人気であったと思われま す。また、ねぷたの製作費は、3から5万円かかり、子供達が5、6人で曳くも のでも5、6千円の記事があります。

昭和28年 目次へ

昭和28年8月12日には、黒石近郷の50組の題名、高さ、地区、責任者の 詳細が掲載されています。(別掲)人形  台扇  台の割合の運行であったと 思われます。

昭和29年 目次へ

昭和29年は、黒石町が、黒石市となった記念の年ですが、ねぷた祭りも市制発足の記念行事(8月1日から18日)に組みこま れ、8月 1日から5日までとなりました。しかしながら、当時のデフレ経済の 不景気風の影響で、参加ねぷたは、大小あわせて38台と低調なものでした。ま た、『商工会議所の審査も中止となった。』との記事から、いつからか商工会議所主催で審査が行なわれていたと思われ ますが、審査結果などは、掲載されていません。黒石ねぷたが、運行ではありま せんが、恐らく初めて東京へ行ったのもこの年です。三越デパートへ4 尺の人 形ねぷた扇ねぷたが出展されたとあります。新市紹介のイベントへの出展ですが 、当時は、町村合併が促進された時期であり、ねぷたの他にズグリ、コケシ等も 出展されたようです。

昭和30年 目次へ

昨年審査が中止されたことで、この年創立された黒石青年会議所(理事長 船 水正晴氏)が、審査合同運行の実施主催を決定したのは、8月 17日の理事会 においてでした。8月19日付けの記事によれば、審査は、 23日午後6時か ら黒石御幸公園で行なわれることが書かれています。さて、この年のねぷたの会期は、8月18日から24日までで、23日の合 同運行には、大小58組の参加があり、7時半からの審査の後、合同運行が行わ れました。沿道には、当時では相当な数の3万人もの観衆があり、コースは、公 園から市の町を通ったようです。さて、賞については、賞金の額や賞の名前もわ かりませんが、順番が、掲載されています。1、袋井町組 2、東野添組 3、 追子野木組◇努力賞裏町組他4点となっています。また、昨年来の不景気も関係 あったのか、横町向上会では、ねぷたにランクを付けてかどづけ(祝儀)の一括 配付を決めたのも、この年でした。当時は、毎晩毎晩各家商店をまわり、祝儀の 強要を感じさせる程であったようで、対抗のひとつの知恵であったようです。教 育委員会からも、子供達への要望として、過度な祝儀の強要を禁止する事が、伝 えられています。ちなみに、向上会の祝儀は、1,500円から100円までで あったのですが、それを目当てに横町に集ったねぷたの台数は、100台といい ますから、市内近郷のねぷた全部が集合したような状態であったようです。(写 真P  )祝儀いりませんと四方に張紙をして、話題となったのが、この金魚ね ぷたです。金魚ねぷたとはいえ、相当な大きさがあるのが、わかると思います。 撮影場所は、現在の甲徳兵衛町の通り(現在のニュー白露から中町方面)です。

昭和31年 目次へ

この年の審査は、8月9日でした。審査は、商工会議所前(現在の   )で 、審査員は、福士市長、木村商工会議所会頭、清藤議会議長、佐藤雨山氏、佐藤 清蔵氏の5名でした。合同運行は、11日7時から御幸公園出発となっています 。新聞によると、審査は、特に事前の申込みの必要はなく、当日の集合でよかっ たようです。合同運行に、審査の発表があり、参加台数の内訳は、人形14台扇 18台子供39台の計71台が、参加しています。この年は、黒石警察署管内の 受付台数が、昨年に比べて多く、146台にもなっています。運行コースは、御 幸公園出発ー大工町ー百姓町(黒石)ー元町ー上町ー横町ー裏町ー鍛冶町ー山形 町ー中町ー浜町ー駅前ー一番町ー市ノ町ー会議所前でした。現在に比べると、ず いぶん長いコースであったようです。さて、賞は、組ねぶた、扇ねぶたの区別と 、市長賞等様々な賞(別掲)が、だされています。昨年とは、ずいぶん整理され て、人出も3万人と大勢であったようです。また、平賀、尾上、田舎館などのね ぶたも沢山入賞しています。さて、当時のねぷたへの批評眼の一例として、8月 14日付けのコラム『ひょうたんなまず』を引用させて頂きます。『中略 今年 は、全体として太鼓がよくなった。審査には、太鼓、笛、綱引きも採点すべきだ と思う。掛け声は、「ヤーレヤレ、ヤーレヤ」で、笛太鼓によくあうのだが、青 森にまねて「ラーセラセ、ラーセラセ」とか「ラーセラセラー」とか「ラーセラ ー、ラーセラー」と気のぬけた掛声がふえてきた。鍛冶町では、青森型の花笠を かぶった男女青年2、30人でたが、踊りの振りもきまったものをもたず、一向 にはえなかった。上十川は揃いのカスリ着物に赤い腰でいかにもつがるのりんご 娘らしい気分をだした。こんなのに特別賞を与えて奨励すればよいとおもう。結 局、資力のあるところでは「こうらん」と「みおくり」に金をかけてほしい。これは、一回つくれば毎回 つかえる。次に「扇」のカッコウのよい形を普及したい。最後に、笛、太鼓に力 を注ぐこと。この3点に気をつかえば、黒石ネブタは青森弘前に劣らぬ独特のよいフンイ キをもったものになれるとおもう。』当時の黒石ねぷたへの思いが、充分感じら れます。

昭和32年 目次へ

子供達のねぷたは、当時、毎年のように話題になっています。それは、仲間が あつまって、リアカーの上にねぷた作る子どもねぷたが、非常に盛んであったか らと思われます。合同運行参加の子供ねぷたの数は、昨年は、39台で、その後台数として確認 ができるのは昭和43年で、『子供ねぷたが、37台で合同運行参加の6から7 割の割合である。』とありますから、少なくとも40台くらいは、いつもねり歩 いていたのでしょう。昭和29年の子供ねぷたの運行風景が、津軽新報(昭和5 9年12月4日付)のなつかしのスナップに掲載されています。(P 掲載)写 真は、喫茶『モリゲン』前で撮影したもので、子供達の手造りねぷたの様子がよ く分かるスナップです。回想のなかで、須佐氏は、『ドラム缶をたたくねぷたも あり、ビックリした。』とあります。当時の運行風景の写真は、少く非常に貴重 なものです。さて、黒石市青少年補導協議会は、ねぷたについて◇大人の監督者 のいない子供ネブタは運行を許可しない。◇ネブタの物もらいは、禁止する。◇ げれつなネブタばやしはやめさせる。の記事があり、相当盛んに子供ねぷたが、 出陣し、その目的は、ねぷたをたのしむことと、かどづけ(祝儀もらい)が、大 きくはやしも、その時その時で適当にアレンジしながら運行していたものと思わ れます。また、ねぷたの会期は、7月27日から8月2日までで、審査は、商工 会議所前で29日7時半から9時半までで、合同運行は、大小62組の参加で3 1日午後7時から御幸公園出発となっています。なお、この年10月2日夜、黒 石高校の文化祭前夜祭に高校生達が、市中をねり歩き話題になっています。

昭和33年 目次へ

昭和33年は、7月から12月の津軽新報のファイルが、残念ながら存在しません。ねぷ たの製作資金は、現在でも毎年問題になるところですが、そのひとつの解決策と して、この年、下山形町では、有志42名が、毎月200円をだし、総予算7万 円のねぷた製作をおこなうと役員名簿付で掲載されています。

昭和34年   目次へ

この年は、前にも述べたように、新暦でねぷた祭りが開催された年です。ですから、この年からねぷた祭りの会期は、8月1日から7日までとな りました。4日が、審査で、合同運行は、5日。運行コースは、道路工事の為一 部変更されましたが、おおよそ従来のコースでした。参加台数は、ぐっと増加し 、80台あまりとなり、平賀、浪岡町からの参加も数多くありました。賞も、市 長賞、会頭賞など多彩になっています。また、この年、初めてネブタ運行懇談会が、黒石警察署講堂で7月27日午後 1時 から、開催されました。黒石青年会議所と黒石警察署との共催で、ネブタ運行の 注意事項が、話題となったようです。

昭和35年 目次へ

この年はは、現在の道路交通法(昭和35年6月25日)が、施行された年です。黒石市でも、黒石警察署が、『ねぷたの大きさを高さ4。5M以内、巾3M まで。折かえしをつけても、それ以上のものは、許可しない。また、運行時には 、責任者、副責任者は、腕章を付け、子供ネブタの運行には、必ず20才以上の 責任者、副責任者が同伴すること。ねぶたの火災に備えて、消火器具の携帯を義 務づけ、はやしは、午後10時まで、午後9 時になったら、帰りがけ、同10 時には、小屋にねぶたを入れること。』と注意しています。また、津軽新報に初 めて、ねぷた審査及合同運行申込受付の広告がのっています。『8月3日必着、 参加無料。申込黒石青年会議所。申込用紙は、黒石青年会議所または、黒石警察 署。警察の許可の無いもの、申込申請のないものは、審査、合同運行に参加でき ない。』などが書かれています。この年は、大鰐、碇ケ関が水害にみまわれ、黒 石も1、2日と雨でした。黒石警察署管内の申請ねぶたは3日現在で、144台 で、その内62台が、4 日審査をしたとあります。(入賞別掲)また、この年 はじめて、黒石観光協会、黒石青年会議所連名で『ねぶたまつり御礼』が、広告 掲載されました。

昭和36年 目次へ

この年、ねぷたの質の向上を目的にネブタ色彩講習会が、金枝芳幽氏(田舎館村)を講 師として、公民館で7月8、9、10日に、小中高生と一般とにわけて実施され ました。さて、警察署では、ネブタの大きさ制限、注意事項は、昨年ほぼ同様で すが、許可申請に200円必要となりました。また、『酒によった人は、参加させない』との注意が追加されたようです。8月1日は、大相撲夏巡業のお相撲さんた ちの一行の見物やら、東北青年集会の来黒者の見物でたいそう盛況であったよう です。ハンドトラクターにのったねぷたもあったと報道されています。運行コー スは、公民館前ー警察前ー黒石館ー上町青銀前(審査場所)ー横町となっていま す。さてこの時の公民館は、現在の市の町ストゼンスタンド、警察は、内町現在 のシルバー人材センター、黒石館(映画館)は、乙大工町労働金庫黒石支店あた りでした。合同運行は、5日で、コースは、御幸公園(集合)ー後大工町ー百姓 町ー元町ー上町ー横町ー前町ー山形町ー鍛冶町ー裏町ー中町ー浜町ー一番町ー市 ノ町ー相互銀行前ー公民館解散となっています。なお、相互銀行とは、現在のみ ち銀黒石支店のことです。また、『市役所職組ねぷたは、8月2日から運行され た。』との記事もあります。市役所のねぷたは、その大きさもありましたが、そ の町内でねぷたを製作していないなどで、参加できないこども達が、自由に参加 できたので、こどもには、大変な人気がありました。市役所のねぷたは、おそらくこの年が、最初と思われます。

昭和37年 目次へ

『威勢よく公明ねぷた』の見出しがあります。この年は、黒石市長選があった 年ですが、連合青年団が、選挙の浄化を願い、大小40個の扇ねぷたを持って街 中をねり歩いたのだそうです。年表をみると分かるように、この行動は、後に市 議会で論議されました。その予算、やり方で、問題となったようですが、ここで は、多くをふれません。しかしながら、その年黒石劇研が、これを材料に、『若い人達』の題名で、シナリオをつくり、上演したのでした。だんだん豊かになってきた 時代の風潮で、ねぷた風鈴(ねぷたの模型の下に風鈴をさげる)とか、黒石病院 の患者さんが、金魚ねぷたを飾ったことなどが、記事になるようになりました。 残念ながら、ねぷた祭りの詳細は、この年は、ありませんでした。

昭和 38年 目次へ

この年、盆踊りを、『よされまつり』と呼ぶようになりました。また、黒石市労連は、今年もねぷた運行予定の記事もあります。審査は、8 月3日となり、合同運行は、5日でした。運行コースは、相互銀行前で解散とな っています。参加台数は、分かりませんが、賞の記述もぐっとふえて、市役所の ねぷたも、市議会賞に入選しています。

昭和39年 目次へ

東京オリンピックの開催された年です。また、市制発行10周年の年でもあります。7月18日付けで、初めて『ネブタ作りはじまる』のアンテナ (当時の軽い話題をのせるコーナー記事、さまざまな話題があり、人気のある記 事だった)があります。当時は、現在と違い、ねぷたの2週間くらい前から泊ま りこみで、集中してねぷた製作をしたようです。ネプタ審査と合同運行について の黒石青年会議所の広告がのっています。前回と変わっているのは、『申込期日 が、8月2日までとなっていること。また、審査結果の発表が、8月4日正午、 黒石商工会議所前及び津軽新報、黒石民報紙面となっていること。』などです。 コースは、変更になっていません。市役所のねぷたは、この年は中止となってい ます。合同運行は、約50台の申込みが、ありました。『特徴として、扇の三国 志がおおかった。』とされています。8月7日付けの『のたり閑話』(コラムの 題名)の『ネブタ むかしといま』のなかで、この年のねぷたの様子が、書かれ ていますので、少し紹介したいと 思います。『前略 青森の影響か、子供のは やしにまだ『ラッセラー』の掛声がきかれる。数年前のことだが、追子野木の” おじぎをする福助”が、人気をよんだが、これが、審査で金賞を得たのは意外だ った。このカラクリは、余興としてはおもしろいが、本格ネブタではない。むし ろ邪道だと思う。それから今年は扇をくるっとまわすネブタが出たのはおもしろかった。審査の時も、審 査台の前でくるっとまわして送り絵をみせたりしていたが、これはネブタの近代 化かもしれない。後略』とあります。このあたりに、扇ねぷたを回転させるものが、出てきた のが、分かります。また黒石電電局(NTT)は、新庁舎の完成を見、それを記 念して、片裏町の市長賞金賞ねぷたを借り受けて、局2階屋上に飾ったことが伝 えられています。オリンピックに関しては、千葉富次郎さん製作のネブタ絵(弘前 竹森節堂筆 )と佐藤善二さんの温湯こけしが、オリンピック村で販売されることが、掲載されています。

昭和40年  目次へ

この年は、市役所のねぷたも復活、横町向上会青年会も15年ぶりに、三国志 の運行を決定しています。一方、下山形町では、ねぷたの小屋掛けの場所を失い 、この年はねぷた製作が中止されました。さて、例年のようにねぷた祭りは、開 催され、大人人形の部では、片裏町の千早姫が、7年連続の最優秀賞に輝き、横 町のねぷたが、扇の部で最優秀賞を受賞しました。また、弘南バスは、青森、弘 前のネブタにあわせて、臨時バスの運行が、伝えられています。弘南鉄道も、弘 前への臨時電車の運行が、伝えられています。このあたりから、人の移動が多く なってきたのでしょう。